昨日を忘れても君と未来を歩めるのなら

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 一限が始まる二十分前。  朝の憂鬱さに身を浸しながら、窓の外を眺める。青空はなく、どんよりとした曇天が教室の光を一層明るく感じさせていた。  雑踏に包まれる教室にありながら、自身の耳を鳴らすのは静寂一つのみ。窓に反射して映るクラスメイトが笑い合う姿。それを見ると、こうして孤独に甘んじ、薄淋しい表情でそれをどこか他人事のように俯瞰するだけの自分が酷く滑稽に見えて仕方がない。  登校直後の身にありながら早く帰りたいと思ってしまうのも、今の境遇を見れば神様も許してくれるだろう、などと一切生産性のないことを考えるくらいには、居心地の悪さを感じていた。  それなら始業ギリギリに来れば良いだけではないか。そう思うのも分かる。だが始業前というのは多数の学生がそれぞれ思い思いに過ごしているものだ。学友同士の会話に話を弾ませたり、ソシャゲの対戦機能を用いて盛り上がる者、一人で読書をする者もいる。  そんな中、ギリギリになって教室に入ってきた人間を見て、人はどのような反応をするだろうか。視線が一斉にこちらを向くのは当然として、その瞳にどのような感情が帯びるか。すぐに興味を失って視線を外すのはまだ良い。こともなげに憐憫に似た情を向けてくる者や、落胆の色を示す者だっている。  だからこそ、必ず三十分前には席につき、授業に備えるようにしている。まあ、それは自分から他人を遠ざけているせいもあるのだが、本質的な部分はもっと違うところにある。  そんなことを考えていると、途端に教室の雰囲気が向日葵が咲いたようにパッと明るくなった気がした。ふと横目を向けてみると、そこにはまさしく高嶺の花。  昨日会った時の姿とは別人のようだ。あの時は絶望を纏い、この世で生きる道を放棄したような印象であったと、。昨夜の出来事は俺自身の妄想に過ぎないと言われても、普通に信じそうなものである。  しかし、学友と挨拶を交わしているその様子は、過去幾度も万人の目に写してきたクラスの中心として、非の打ち所がない所作として寸分の違いなくとも、どこか柔らかい何かを感じさせるものだった。笑顔の固さが和らいだというのだろうか。表向きの雰囲気こそ変わらないものの、憑き物が落ちたような柔和な瞳を見せている。  俺はこういう視覚から入ってくる情報を、よく無意識のうちに読み取る癖がある。これも自身が置かれている境遇によるものなのだが……。それは今話すことではないだろう。顔の表情は、自分という存在に対する腹の中の心情を最も読み取りやすい要素だ。表情がコロコロと変わる人間は比較的与し易いというか、本音が透け出ていて会話にストレスが少ない。  一方で朴念仁が相手だと一苦労だ。自分がそうであるという自覚はあるが、他人がそうだと対応に苦心させられる。それでも些細な変化に気づけるのは、俺がこの住みにくい世を生き抜くために身につけた言わば護身術である。そのかわり、人の顔をジッと見る癖のせいで随分と気味悪がられた覚えも記憶に古くない。  そんな取り留めのないことを思案していると、新條と目が合った気がした。慌てて顔を背け、窓の外へと視線を向ければ、窓に映った新條は表情豊かに頬を膨らませているようである。  俺はどこ吹く風というように不干渉をオーラでアピールしようとするが、その努力は実を結ばない。新條は俺の素知らぬ仕草に不満を募らせ、ついにはこちらに向かって歩み寄ってきた。 「赤阪くん、おはようございます」 「ああ、おはよう」  声音はいつも通りだが、僅かに震えを鼓膜が捉えた。柳眉を逆立てて怒っているように見える。俺は平然と返事を返したが、それがかえって良くなかったらしい。  いつのまにかクラスが静まりかえっていたのだ。何事かと周囲を見回すと、まあ好意的な視線は皆無だった。  妬み僻みといったものが大半を占めている。人から向けられる感情には人一倍敏感なつもりだった。  そんな視線を努めて無視しつつも、新條はその場を立ち去ろうとしない。これ以上は何か特別な関係にあるのではないかと疑われる可能性だってある。そもそも俺と新條が釣り合っているとはつゆほどにも思わないし、何か俺が粗相を働いて叱責を喰らおうとしている、という構図に見えているかもしれない。  いずれにせよ、この針の筵のような環境から早く脱したかった。そもそも俺に話しかけてくるメリットがない。百歩譲って俺に好意を向けているとしても、素性が知れ渡っているクラスメイトの巣で行う意味がない。推奨しているわけではないが、俺がトイレにでも行っている間に話しかけた方が余程波風は立たないだろう。 「あの、赤阪くん。昼休みに第二音楽室に来てもらえますか? ちょっとお話ししたいことがあります」  新條さんは言いたいことを告げて、承諾の返事も聞かずさっさと踵を返してしまった。 「え、ちょっと」  引き留めようとする俺の声に一切の反応を示さず、俺は呆然と立ち尽くす。依然向けられる悋気の視線に、俺は辟易とするばかりであった。  直後、一限の開始を知らせるチャイムと共に、現代文の先生が「席につけ〜」と間延びした声をかけながら教卓についた。俺はこれ幸いとばかりに顔を机に突っ伏し、その場をやり過ごすことにした。授業の間はまだいいが、授業後の光景目に浮かぶ。どうしてこんなことになったのだろう。俺はため息を吐きそうになるのを抑えながら、物憂げに窓の外に視線を移し、昨晩の出来事を反芻していた。
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