ご挨拶

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 なるほど。私がちょっと怖気付いてしまっていたのを感じとっていたのかこの男。  もう引き下がれないように、外堀を固めているんだ。  なんて男。 「別に。あなたのご両親に会ってまでして逃げようなんて思ってないから」  私はそうつっけんどんに答えると、差し出されていたペンを手にする。目の前のダッシュボードの上というやや不安定なところで素早く書き込んだ。おかげさまで字はぐちゃぐちゃミミズ状。  世界でも、婚姻届をこんな急いで、しかも車の中で記入する人もなかなかいないだろう。まるで宅配便のサインでもするように、私は適当な字を綴った。 「はい、どうぞ。印鑑は押しといて」  私がペンと紙を手渡すと、彼は満足げに笑った。 「よし。あとは適当に俺が出しておく」 「よろしくお願いします」 「引っ越しの業者も手配しておく。杏奈の家族との挨拶が終わり次第これは出しておくから。両家の顔合わせはおいおいということで」  私はもう返事をしなかった。全てこの人のペースに振り回されているけれど、仕方ない。期限付きのルームシェアなんだ。我慢我慢。
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