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サーシャを乗せた馬車は速度を上げて、目的地へと進んでいる。幸い、穏やかな天気が続いており、足止めを喰らうこともない。
けれど、順調に進む中、サーシャの容態は一気に悪化していった。
馬車の座席に一人で座っていることもままならなくなってしまったサーシャを目にして、アズレイトは急遽、大型の救護馬車を手配した。
そして、車輪が回る度に揺れてしまうサーシャの身体をずっと支え、あれこれと世話を焼いている。
時折サーシャの手を握り、思いつめた表情を浮かべるアズレイトのその姿は、良く言えば、まるで祈りを捧げているよう。
ただ、言葉を選らばない表現をすれば、ご主人様にお座りを命じられそのまま忘れられてしまった犬のようだった。
でもアズレイトは種馬ではあるが、犬ではない。キュンキュンと切ない鳴き声をあげることはないので馬車の中は、夜明け前の森のようにひどく静かだった。
「───……サーシャさま、少しよろしいでしょうか?」
馴染みのある騎士に声を掛けられ、微睡んていたサーシャはパチリと目を開けた。
「……んー?良いですよー」
声がする方に返事をしながらサーシャは、肘を付いて身体を起こそうとする。でもすぐに、ぐらりと身体が傾いてしまった。
サーシャはもう一人で起き上がることができなくなっていた。
それを知っているアズレイトは、サーシャが床に倒れこむ前に腕を伸ばして支える。そしてそのままサーシャの背もたれと化す。
ほんの少し前まで、騎士達が気を揉んでいたのが馬鹿らしくなるほど、二人は常に密着している。
でも、騎士達はそれを見て微笑ましいとは思えない。
くしゃりと泣きそうになる顔を必死に押さえ込んで、一人の騎士は手にしていたものをサーシャに差し出した。
「以前、割ってしまったカップの代わりをお持ちしました。どうぞ受け取ってください」
サーシャはそれに触れて、苦笑する。
「......そんなの良かったのに」
「良くありません。ずっと申し訳なく思っていました。でも同じ柄を探したのですが、どうしても見つからず......わたくしの趣味で選んでしまいました。気に入っていただけたら幸いです」
「うん、ありがとう。では遠慮無く使わせてもらいますね。─── うん、スベスベ。良い肌触りです」
「......サーシャさま、恐れながら......それは、わたくしの頭部でございます」
「あっ、あははっ、へへへっ」
取り返しのつかない失態を犯してしまったサーシャは、咄嗟にごまかし笑いをしてみた。
すぐに、すんっと頭を撫でられたお髭の騎士が鼻をすする気配が伝わってくる。
サーシャは別に、悪気があってそうしたわけではない。単に、もう目が見えないだけなのだ。
それをお髭の騎士は知っている。そうなった経緯も全て。
だから騎士が泣いているのは、ハゲを弄られたからではない。......たぶん。まぁ、ちょっとはあるかもしれないが。
「え、ええーと……サーシャさま、こちらでございますよ」
収拾がつかなくなりそうな状況を察知したアズレイトは、サーシャの手に本物のカップを置いた。
「アズさん、ありがとうございます。───......うん。取っ手が大きいから、握りやすいです。これならうっかり落とさないで済みますから、長く使えますね。ありがとうございます、大切にします」
サーシャは手の中にあるカップに触れ、先程の失態を取り消すように丁寧に騎士に礼を言った。
言ったそばからサーシャはチクリと胸が痛んだ。これを使う日はきっともう無いのだから。
嘘を吐く罪悪感は、未だに慣れることはない。でも、サーシャは優しい嘘を吐き続ける。
「これで帰ったら、ハチミツ入りのお茶が飲めます。騎士さんも飲んでくださいね。今度はゆっくりと」
サーシャはにこりと笑って、騎士に嘘を吐く。背中を支えるアズレイトが、微かに震えたのが伝わってきた。
でもサーシャは、それを馬車の揺れのせいにする。
”そうしてほしい” ”そうなってほしい”と互いに思っているのに、それが嘘だとわかってしまうのは、なんて残酷なことなのだろうとサーシャは思う。
そして、今ここにあるのは優しさしかない。なのに、どうしてこんなに悲しい空気が充満しているのだろうとも。
皆の笑顔が曇らないようにと浄化の儀をしたのに、まったく効果がないことにサーシャは、途方に暮れてしまう。
そんな中、少しの間を置いて力強い声が車内に響いた。
「光栄であります。是非とも」
そう答えた騎士は、サーシャに悟られぬよう静かに涙を流していた。
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