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西の森で草むらの陰から初めてサーシャを見た瞬間、アズレイトは目を疑った。
国を救う唯一無二の高潔な存在が、じゃがいもを片腕に抱えながら、えっちらおっちら歩いていたから。
いやいやいやいや、この由々しき事態に聖女は何をそんな呑気に生活しているんだ?!
そんなことを心の中で叫んだのは覚えている……が、気付けばアズレイドは、サーシャの腕を乱暴に掴んでいた。
そして強引にこちらを振り向かせれば、まるでガラス玉のような水色の瞳があまりに綺麗で目を奪われてしまった。
予想外の出来事だった。
だが、それは序章に過ぎず、それからアズレイトは何度も予想外の出来事に遭遇する。
例えば、人間以下の自分の命を取引に持ち出せば、あっさり要求を呑んだりとか。
例えば、すっかり舌に馴染んだ種馬トークを披露する度に赤面されたりとか。
例えば、淑女として扱えば「子供扱いするな」と憤慨したりとか。
サーシャと出会ってからアズレイトはペースを乱されてばかりだった。そして心までかき乱される。
それがとても嬉しくて、楽しくて、アズレイトはサーシャの傍から片時も離れたくなかった。自分だけを見て欲しかった。
次第に誰にも取られたくないという独占欲が湧いた。それは、誰かに必要とされたいという気持ちを凌駕するものだった。
サーシャにとってアズレイトは必要な存在ではないかもしれない。けれど、アズレイトにとっては、サーシャは無くてはならない命より大切な存在になっていた。
そしてアズレイトは、母親に向かって初めてワガママを口にした。「サーシャを妻にしたい」と。
母親でありこの国の女王は、最初は難色を示した。
だが根負けして、長い間守り続けてきた掟を破り、アズレイトの望みを叶えることにした。
ただあの時エカテリーナは、こう言った。「例えそれが叶ったとしても、近い将来きっと後悔する」と。
今にして思えばエカテリーナは、サーシャが余命いくばくもないことを知っていたのだろう。
でもアズレイトは、これっぽちも後悔なんてしていない。なぜなら───
「王子、馬車の用意が整いました。領主の懇意で駿馬を譲っていただきましたので、一晩中馬車を走らせることができるでしょう。……いつでも出立できます」
サーシャを抱いたまま微動だにしないアズレイトに向け、いつの間にか近くに来た騎士は控えめな声で報告をした。
「……そうか。では、行くとするか」
少しの間の後、アズレイトは騎士に顔を向け強く頷いた。そして、サーシャを抱いたまま立ち上がる。
その顔には悲壮感は無い。何かを覚悟した凛々しい表情だった。
サーシャは実はまだ死んではいない。今、仮死状態にある。宮廷魔導士と宮廷薬剤師が手を組んで作った秘薬を、アズレイトがこっそり飲ませたから。
ただ、この秘薬を飲んで息を吹き返す確率は極めて低い。もちろんアズレイトは、知っている。知った上でサーシャに薬を飲ませたのだ。
何もしなければサーシャはどのみち死んでしまうのだから。
「サーシャさま、お許しください。ちょっとだけ寄り道させていただきます。……けれど、約束します。必ず西の森に帰ります……もちろん、わたくしもご一緒に」
アズレイトは、しっかりとした足取りで馬車に向かいながらサーシャに囁いた。
国を救った聖女は、孤独な王子の心までは救うことができなかった。
けれど孤独な王子は、聖女の命を救うべく王都に向かう。如何なる病も怪我もたちまち癒すと言う不老不死の宝玉を手に入れる為に。
それは─── 玉座の真下で眠る魔王の体内にある。
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