人災

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人災

 シュル──とネクタイを外すこの瞬間の解放感は、何物にも代えがたい至福の瞬間。きっちりと型のついたブレザーを脱げば、それだけで身も心も軽やかになる。  寮の部屋に戻れば、夕食の時間までは自由な時間だ。今日は珍しく宿題もない。  制服よりも呼吸が楽にできる、柔らかな素材の部屋着に着替えた棗は、猫用の餌入れの中身が一切量の変わっていないことにチクリと胸に刺さるものを感じた。  人でなくとも感情はある。棗の足元をウロウロと彷徨い、闇から生まれたその身を時々擦り付けたりしているクロウメが、今どんな気分でいるのか、さすがにそこまで鈍感ではない。しかし決して手を伸ばしてはやらない。こんな単純な駆け引きでも、十分に心は満たされる。  人に対し好意的な態度を取るくせに、飲食物にはまるで興味を示さない。餌や水というものだけが写らない眼でも持っているのだろうか。  何十分もかけて餌を口元に差し出してみたり、離乳食のような水分量の多い餌に変えてみたり、今できる手は全て尽くしたが、結果に変化はなかった。  妙なのは、クロウメがそれらを拒絶する様子は見られないのだ。光を感知できない目を持つ者に、色を当てろと尋ねているような気分だった。いかなる工夫を凝らそうとも、反応がない。  ここ数日の悩みの種はそれだけだった。寝ても醒めても、いかにして餌を与えるかというその一点しか考えられない。ほんの僅かにでも口に含んでくれたなら、まだ希望が見えるかもしれないのに。  もう一度病院へ行き、栄養のある点滴を受けさせた方が良いのだろうか。  棗の苦悩など気にも留めないクロウメは、棗の脛に横腹を触れさせ、中途半端に腕が片方上げられたまま硬直し、数秒間時が止まっていたようだった。  猫は時々変な動きをする。人間より耳が良いらしく、部屋の外から漏れてくる足音や話し声に反応しているのかもしれない。  餌や水分を取ってくれない不安は消えないが、寝たきりになることも身を隠すこともなく、こうして目の届く範囲で好きに動き回ってくれるのは、せめてもの救いであった。  何に反応したのだろうかと想像を膨らませながら観察を続けていると、彼は挙動不審に玄関の方へと歩んでいく。一歩ずつ慎重に、頻繁に足を止めながら、土間の前まで行ってしまった。  誰か来たのかと待機していても、ノックの音は一向に聞こえてこない。ドアを見つめるクロウメは、シャーと音もなく威嚇していた。  来客なら経験済みだ。隣人である森明がここへ押しかけてくる時は、威嚇などしなことがない。虫か鼠でも迷い込んでいて、その音に反応したのだろうか。  棗が傍らに立っても、警戒は緩まない。何をそんなにも気にしているのか、いよいよドアの向こうの景色が気になってきた。  土間に素足で降り立ち、ドアノブを捻ろうとしたその時――コンコンコン――とリズム良くノックの音が響いた。  足元の猫が、勢いよく音のしたドアの上の方へと顔を上げていた。 「はい!」  掴みかけていたノブを握り直し戸を引くが、鍵によって開閉が阻害されてしまう。慌てて解錠しもう一度引けば、背の高い長髪の男が、灰色の瞳で棗を見下ろしていた。 「会長……」 「やあ、棗──おや」  生徒会長である聖は、寮生ではない。下校時間はすぎていると言うのに、なぜまだここにいるのだろうか。  ゆっくりと視線を下げた聖の眼はどこか、冷ややかなものに見えた。――当然だ。棗は無断で猫を飼っているのだから。  この場で叱られるだけならまだしも、寮長や先生に報告されるとまずい。いくつもの対策案が頭を渦巻き、冷や汗が滲んだ。  しかし意外にも、聖は良くも悪くも特に反応は示さず、棗ではなく、クロウメに向かって声をかけた。 「ああ、キミか。こんなところに黒猫がいるとは思わなかった」  ――いや、油断はできない。  窓を開けたら勝手に入り込んで来てしまったと言って誤魔化そうか。それとも既にクロウメを目視している寮長と話しても問題がないように、怪我をしているから治療する間だけでも許してほしいと曖昧な嘘ですり抜けようか。クロウメが餌を食べない姿を見せれば、病の可能性は否めないだろう。  当のクロウメは、背中の毛を逆立てながら聖を睨み上げていた。  聖が彼に向け優しげな笑みを浮べると、聖の背後からひょっこり顔を覗かせる人物がいた。クロウメが警戒しない隣人だ。 「会長が、話があるから寮長の部屋に行こうって」  背筋に戦慄が走った。呑気な声を出せるほど(たぶら)かされている森明が恨めしい。  このタイミングで呼び出しなど、目的は一つに決まっている。寮長からも忠告があったのだ。  ――クロウメのことだ……。  フーッ! と威嚇を止めないクロウメを、聖は心底愛おしそうに眺めている。せっかく生徒会長が直々に――望まない呼び出しだったとしても――来てくださったというのに、何て態度を取るのだろうか。  いつもは大人しく人懐っこいというのに、急にどうしたというのか。 「威勢がいいな。キミはお留守番だよ」  こういうとき、人間相手ならば言葉や触れ合いによって諭すのかもしれないが、悲しいことに棗とクロウメは種族が異なる。大丈夫だと撫でてやりたいが、猫にとってそれが効果的であるのかどうか判断がつかなかった。  動揺を隠せていないのが伝わってしまったのか、会長はその場に片膝を付いてしゃがみ、クロウメと視線の高さをなるべく合わせている。黒の生き物は頭に付いた耳が外側を向いており、引き気味の腰の下に尻尾が潜り込んでいた。  シャーッ、とまた威嚇しながら、片方の前足をいつでも相手に叩き込める体勢で構えている。それでも聖は、クロウメに嫌な顔一つせず、小首を傾げながら目を合わせていた。 「いいコにしてなさい。……いいね?」  そう言われたクロウメは、今度はまたどうしたというのか、急に臨戦態勢を崩し大人しくその場に座った。会長の言葉がわかるのだろうか。意外と賢い奴なのかもしれない。  年齢は定かではないが、動物病院に連れていった際に先生が言っていたのは、推定三歳から四歳の成猫だそうだ。  聖は満足気に笑う。彼が立ち上がったのを皮切りに、安堵した棗は靴を履いた。制服姿の聖に相対的に、会長と寮長の前に出て行って良いものか躊躇してしまいそうな、ラフな格好をした棗と森明。  行こうか――と囁いた聖の声があまりに心地良く、鍵を掛けるのも忘れて、二人の後を追っていった。
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