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出会いは発見
『いい人』というのは、即ち『優しい人』のことではない。自分にとっての正義と価値観が一致しているか否かという、ただその一点である。
優しさがときに残酷になり、善意だからこそ首が絞まることもあるのだ。逆に冷酷さや残虐性が求められる場面も存在している。
左手首に巻いた包帯に、歪な赤黒い円が浮かび上がってくるのを眺めながら、長い前髪で片目が隠れた男はカフェオレの入ったマグカップを持ち上げた。今日のカフェテラスは静かな時が流れている。まだ肌寒さが残る四月の上旬、石畳の広場を挟んだ先に植えられた桜は満開で、心地良い微風が花びらを攫って舞い上がった。
校内の生徒たちは、今日はほとんどいない。カフェの中にも、在校生は二組だけで――カフェオレを一口飲む間に、うち一組が席を立ち、去っていってしまった。
いつもは賑やかな学校の敷地内がこんなにも静かな理由は、今日が通常の授業ではなく、中等部の入学式しか行われていないためだ。新入生同士が親睦を深められるようにと、毎年このカフェだけは入学式の日に営業してくれるが、初日から入ろうとする勇気ある者はほとんどいない。
他と比べたら少人数しか入学できない男子校だからだろうか。友人同士で入学する者もあまり見かけないため、生徒のほとんどは入学後に仲良くなる者ばかりで、そんな中、小学校を卒業したばかりで一人でカフェに入る者はいなかった。
平成十年。私立映日学園入学式。
静かで、明るく暖かい、良い『晴れの日』だ。
こんなにも過ごしやすい入学式日和だというのに、包帯に広がる赤い染みが、いよいよ目立つ大きさにまで成長してしまっていた。
――まずいな。昨日の……。
深く深く抉られた肉の痛みが蘇る。別に『それ』はどこであろうと構わない。夢中になっている時にはほとんど判断力を失ってしまうため、そこはイヤだとか、ここがイイだとか、逐一注文を付けることもできない。
逆らうつもりもない。逆らえるはずもない。
それにしても、さすがにこんな場所に包帯を巻いて血が滲んでいたら、リストカットでもしたのかと周りから心配され、一線を引かれそうだ。
長袖を着る季節で良かった。後で消毒し直すつもりで、袖の奥へ腕を引っこめた。
ゾクッ――と背筋が凍る感覚に身震いしたのは、その直後だった。
不快感ではなく、快感にも近いと言うのに、本能的に一瞬怯んでしまう圧倒的な何か。この感覚を彼は知っていた。近頃はこれを体験する期間が短くなり、故に多幸感を得られている。
畏怖。安心と恐怖が同レベルで存在している奇妙な感覚。
無意識に、左手の甲をそっと撫でていた。
「――あの」
その声の主が、この戦慄の正体であるとわかる。それでも振り向かずにはいられない。そしてそれは、自分が望んでいる存在とも異なる人物だと、それは声ですぐにわかった。
違うのに、同じ何かを持つその人が何者であるのか、見てみたくなった。
なるべく視界に写りこまないようにしていた左隣へ、首を動かし視線を上げる。立っていたのは、新入生にしては随分落ち着いた雰囲気を纏う、制服姿の少年だった。
声が出てこない。金縛りにも似た硬直に見舞われて動けない。
「怪我、されてるんですか?」
話しかけられて漸く、体の自由が戻ってきた。
「あ、ああ、これは……うん、怪我の傷口がね、開いちゃったみたいだ」
意味もなくあまり見つめ続けるのも失礼だろうと、目を逸らしながら当たり障りのない事実を述べる。
風に乗った桜が一枚、吸い寄せられるようにして包帯に張り付いた。麗らかな春の陽射しと踊る桜、その中で身震いしている者がいるなど、誰も想像つかないのだろう。
薄紅色の花弁を摘み上げるが紅色に染まってはおらず、そんなことで胸を撫で下ろした。
ウィンドと呼ばれるバトラーが桜を下げてくれたかと思えば、目の前に純白の布が差し出された。
「嫌でなければ、これ使ってください。今日おろしたばかりなので、綺麗です。よければ保健室まで送りますよ」
「……もう覚えたの? 保健室の場所」
「あ、僕、中等部の一……今日から二年です。中等部代表で駆り出された帰りで」
これ見よがしに、ラルフローレンのロゴをこちらに向けられている。
嗚呼――ああ。何を動揺しているんだ。たかが中等部の奴に。実害もないのに敵意を抱くなんて、まるで妬みではないか。先輩はこっちなのだ。しっかりしなければ。
会長のように。
「ありがとう。君、名前は?」
背筋をピンと伸ばした彼は、幾分硬さが崩れてきている制服の裾を握りながら、高らかに、こう言った。
「月光、棗です」
程よく通る、声変わり終わりがけの、まだ僅かに幼さの感じられる声だった。
とてもいい子だと、直感でわかる。見ず知らずの人が怪我をしているというだけで、一刻も早く帰りたいであろう時間を割いて、保健室まで付き添うつもりでいたのだから。ちょっと血が滲んだだけで、規模的に大した怪我でもないというのに。
本当に、この学校には優しい人が多い。生徒会長がいい人だから、他の生徒も見習おうとするのかもしれない。
ありがたい申し出ではあったが、これはもう少しこのまま放置しておきたい。申し出は丁重にお断りし、新品だというハンカチも「大切に君が使いなよ」と付け加えておいた。
お大事に――そう言い残して去っていった彼の背が、なんだか愛おしく思えてしまった。卒業した中等部の未来も明るそうだ。
頬杖をつき、止まっていたカフェオレを飲む手をまた持ち上げ、半分ほどを一気に飲み干す。冷めてきてしまったせいだろうか。思っていたより甘ったるかった。
「――チェンバレン」
不意に呼ばれたその名に、肩が跳ねる。
今度は聞いたことのある声だった。長いせいで片目がいつも隠れてしまう前髪を掻き上げながら声のした方へ首を傾ければ、自分と同じく私服姿の、しかしきっちりジャケットを羽織った堅苦しい服装の青年が近づいて来ている。
休日に、後輩の前に出てくるために着てくる格好にしては息苦しすぎる。いつまでも埋まらない価値観の差に、もはや呆れすら出てくれなくなってしまった。
「熾って呼んでくださいよ。いつも言ってるのに」
「すまない、癖だ」
フー……と短く吐息を漏らしながら眼鏡の位置を直している彼は、何度言ってもその呼び方を直してくれない。
この学校には寮がある。主に実家が遠方の生徒が寮に入るはずだが、それぞれの事情で近所ながらに入寮する者もそれなりにいる。その寮出最も偉い存在ともいえるのが、三年に一度しかその立場が交代しない責任者――寮長である。
彼が現寮長を務めている、長野諒。ここ一年で濃密に生徒会と関わるようになっていた熾は、寮生でも同学年でもない彼と、何度か話したことがあった。
その度に、熾は苗字で呼ばれる。悪意があるわけではなく、生真面目なのだ。
苗字が嫌いというわけではないが、ハーフだとからかわれた嫌な経験を思い出してしまうからと、海外に住んでいた頃も、日本へ戻った後も、知人には名前で呼んでくれといつも一言添えている。
この学校に来て、差別や虐め、蔑みなどで不快な気分になったのは一度もない。幼い子でもあるまい、今更名前に拘る必要もないのだが――これも癖だ。意地の張り合いでいつも熾が負けているだけだった。
今日は生徒会の会議も無いのに、何をしに来たのだろうか。プライベートで会うほど親密な仲ではないのに。
諒は高等部の二年だ。ここの敷地内で過ごす時間も長い。いつもと何も変わらない調子で、片手をガーデンチェアの背もたれに添えながら、要点を端的に話してくれた。
「おまえ、今日から寮に入ったんだろ? わからないことがあったら教えてやってくれと、会長から言われてる」
相変わらず真面目な人だ。もう一口飲んだカフェオレが、今度は少し苦かった。
「ええ、寮生に仲のいい人いないんです。よろしくお願いしますね――……あれ?」
諒と棗に気を取られすぎていて、あるいはカフェオレの味を気にしすぎていて、頭からそのことがすっかり追い出されていた。何よりも優先して思いに耽けるはずだというのに、入学式という雰囲気に当てられたのか、諒に反し熾は浮き足立っていたらしい。
慌てて包帯の端に貼られた白いテープを引っ掻いて剥がし、幾重にも巻かれた包帯を右手で巻き取っていく。
血で赤黒い染みができている、まだ鮮血が乾き切っていない、その包帯を。
「どうした?」
「うそだろ……?」
解いた包帯の下には、ガーゼで覆われた傷がある。楕円形に肉が抉れているのだ。まだ皮膚の再生が追いついておらず、出血の止まった皮膚の奥が丸禿になった、少々グロテスクな姿のままである――はずだったのに。
そこにあったのは、赤ん坊の額のようにまっさらな素肌だけだった。
完治していたのだ。治癒の痕跡もなく。
血の気が引いた。何が起こったのかはわからず、わかるはずもなく、真っ白に飛んでしまった無の状態ながら、左手の甲に付いた古傷を守るように胸に抱いてしまう。
ありえない。このテラス席へ掛けた時、マグカップを置こうとした左手がズキッと痛んだのを、まだこんなにも鮮明に覚えているのに。右手に握ったガーゼから滲んだ血は、手のひらを紅色に汚しているというのに。
痛みも、傷も、どこへいったのだ?
この血は、一体どこから滴った?
偶然通りがかってしまった部外者のような顔をして、鮮血のガーゼから目を背け、視線を泳がせている諒を睨み上げる。
――まさか、コイツか……?
「サノ先輩……僕に何かしました?」
「何の話だ? ……怪我しているのか? 寮の中で不自由があったら言ってくれ。手伝おう」
その素直な気遣いに、嘘偽りや、誤魔化しや、不自然な点は感じられなかった。
「……平気です。もう治っちゃったみたい」
何もわからない今は、無駄な詮索をしてしまえば墓穴を掘るかもしれない。
傷痕一つ無い手首を軽く振って見せる。「そうなのか?」と簡潔に返してきた諒は、訝しげに血の付いたガーゼと包帯を眺めていた。
彼でないとしたら、他にそれっぽい奴は一人しかいない。今まで実感のないものとの認識しかしておらず、自分とは違う世界を生きる存在にも思えていた者に、まさか、こんな形で遭遇するとは想定外だった。
――会長に逢いに行く理由ができたな。
少年が去っていった寮のある方を、鋭く、そしてどこか艶めかしく睨みつけた。
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