出会いは発見

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 ――月がきれいですね。  カーテンのみを開けた暗がりの部屋の隅で、膝を抱え蹲る棗がこの言葉を知ったのは、もういつだったのか思い出せないまでに昔の出来事だ。何をきっかけに知ったのかすら、もう覚えてはいない。  ただ。  知らなかければよかったと、幾度となく後悔していた。  月の美しさを語ろうとしても、意図していない言葉の裏を断定されてしまうなど、困る。歪な認知の浸透によって、そこには本来ないはずの虚構の『愛』が勝手に生じてしまう。  知識というのは、時に邪魔になる。純粋な解釈を忘れてしまう。  迷惑極まりない。月にも、僕にも――と、棗は抱えた膝の間に顔を埋め、ただでさえ暗い視界をさらに閉ざした。  背中と足元から体温が奪われていく。寒さは嫌いだったが、暖かくしようという気にもなれなかった。十二畳もある簡素な寮の一室に住み始めて、もう一年と一ヶ月になる。そんなに経っても部屋にあるのは、勉強机とシンプルなベッド、あとは備え付けのクローゼット程度しかない。  カチッ、カチッ――と音を鳴らしてくれる時計が、愛おしかった。  視界を閉ざしてしまうと、ついさっき読んだばかりの文字たちが音となり、脳内でぐるぐると反響する。電気スタンドと筆記用具しか置かれていない簡素な机の上に乗っている手紙に記されていた、息子を案じた温かい文字列だった。 「……母さん……元気かな。手紙じゃなくて……」  込み上げてきた途方もない虚しさに言葉は潰え、口は動かなくなってしまった。  相当参っているな――。口角を上げる気力もなく、切れのいい鼻息だけで自嘲した。  顔を上げ立ち上がると、冷えた足先の感覚は鈍くなっていた。机に乗っている、粘着力が弱り封が閉じ切らなくなった手紙を数秒間睨み付け、部屋で唯一の出入口である玄関へと向かう。  狭い土間に並べてある靴を手で持ち、音を立てないよう細心の注意を払いながらドアを開き、素早く外へ出る。素足で廊下と階段を駆け抜ければ、エントランスホールは目の前だ。  正面突破はやめた。監視カメラが付けられている上にしっかりと施錠されているため、出たくても出られないのである。エントランスを素通りし、管理人の通行口である裏口へと向かう。  裏口のドアだけ唯一、内側から施錠するタイプだった。  普段から模範生をしていても、ぼんやり生きているわけではない。悪用する、しないは別として、自分が暮らしている建物の把握は嫌でもしてしまうものだ。脱走に役立てることになるなど、思いもよらなかったが。  なるべく静かに鍵のツマミを回す。カチンッ、と響いた音に肝が冷えた。  そっとドアノブを捻り、扉を押せば、途端に肌寒い風に頬を撫でられた。滞っていた屋内の空気とは違い、埃っぽくも淀んでもいない、新鮮な夜風に全身が晒される。  後ろ手にそっと扉を閉めると、漸く方の力が抜けた。屋外の空気を深く深く肺に染み込ませ、全身に行き渡る新鮮な血の巡りを感じてから、溜まったそれをゆっくり吐き出す。  部屋で独り小さくなっているよりも、こっちの方がよっぽど穏やかな気持ちにさせてくれる。柄ではないが、花でも摘んで花瓶に活けてみてもいいかもしれない。  実家で母がしていたように。  殺風景すぎる部屋はどうしても息が詰まる。しかし自分の部屋に花が増える姿を想像して、あまりの違和感に溜息が漏れた。  空を見上げると、今し方出てきたばかりの建物が、白い常夜灯によって照らされている。  ここは山奥なのだ。戦時中、不治の病に侵された人を隔離するために使われていた施設を、現理事長の祖父が買い取り、私立学校に作り変えてしまった。そして数年前、内装のみが一新され、今では綺麗なワンルームがいくつも入った、住み心地だけは良い寮となっている。  棗は、中高一貫校であるこの学園に入学して以来、大して興味もない学校と寮の歴史を何度も学ばされた。誇りある伝統を語る教師の言葉は、下手な子守歌にしか聞こえなかった。  足元へ視線を落とせば、電気の光すらほとんど届かない薄暗い闇が広がっている。  どこへ行こうか、何をしようか考えが浮ばず、結局目的のない一歩を踏み出し、それを淡々と繰り返す作業に徹する他なかった。  俯いたまま、歪んだ直線を無意味に歩く。虫すら鳴かない静寂の夜だった。もう五月も半ばだというのに、多少でも標高が高いせいで気温はかなり低い。太陽も沈んだ夜ともなれば、雪のない冬と言い表しても差し支えない気温だ。  草木が鬱蒼と生い茂る自然豊かなその場所で、ふと何気なく足を止めてみると、近くでガサガサと草が揺らされる音がした。咄嗟にそちらへ目を向けてみるが、人の気配はしない。  耳を澄ませ、痛いくらい飛び上がった心臓の音が聞こえてしまわないか警戒しながら、脱走が見つかった可能性が頭を過り一抹の不安に手足が震え始めたその時――棗の足のすぐ側を、一目散に何かが駆け抜けていった。 「ッ……!?」  驚愕に体が跳ねたせいで、音の正体である何かはまた遠くへと行ってしまった。  虫にしては大きいが、鳥にしては挙動がおかしい。暗闇に紛れていたせいで、実体が全く見えなかった。  その正体を予想する棗の頭にまず浮かんだのは、とても非現実的な可能性だった。  彼はそもそも幽霊の類を信じてはいない。信じてはいないが、怖いものは怖い。何もない日常を過ごしていた彼だったら、こんな所に現れるのは自分と似ている捻くれた人間か、野鳥――まあそのいずれかだろうと推測するはずだ。  普段ならばそう思う棗も、この日だけは違った。それもまた、全ては棗が通う学校と、そして寮のせいであった。  寮内で最近、まことしやかに囁かれている噂がある。イタズラにしては質が悪すぎるその噂の内容は、日本にはあまり浸透していないものの、世界的に有名な都市伝説の類。 『寮の中で、吸血鬼が出ている』――そんな根も葉もない噂だった。  屋内へ戻ろうか、もっと追いかけてみようか、好奇心と恐怖の狭間で結論が出せず、棗の足はそこから動かなくなってしまう。  躊躇している間に、今度はゆっくりと、謎の物体の方から棗に近づいてきた。すぐ傍らまで来て、警戒する様子もなく、ピタリと動きを止めている。  吸血鬼などと言うものだから、自分より大きな成人男性を想像していたというのに、実際のそれは野鳥と相違ない大きさしかなさそうだ。ということは、吸血鬼――ではないのかもしれない。  ――野生の動物かな? それにしては警戒心が無さすぎる気が……。  そちらから来てくれたのはありがたいが、正直暗くて何も見えない。見えないもの、聞こえない音に、人は恐怖や不信感を抱く。まずはこの目で謎の正体を確かめなければ、きっとこのまま逃げ帰っても眠れない。  棗は相手を脅かさないように膝を曲げ、しゃがみこみ、至近距離で目を凝すべく、そいつに顔を寄せていった瞬間――。 「にゃあ〜ン」  ――なんとも愛らしい声が聞こえた。 「おまえ……猫か……!」  手のひらを見せてから慌てず腕を伸ばし、驚かせないように両手で触れてみると、モフッ……とした毛の塊を指先が捉えた。  間違いない。  闇の中から、黒い猫が生まれた。  野生の生き物によって生徒が怪我をしたり、生態系を壊してしまう危険を回避するため、寮のエントランスに設置されている掲示板を通じ、学校の周囲で目撃された動物は閲覧できるようになっている。  しかし、この辺りに野良猫が住んでいるという話は、入学して以来一度も聞いたことがない。今まで身を潜めて生きてきたのか、偶然迷い込んでしまったのかどちらかだろう。  少しずつ闇に目が慣れてくると、猫の目の位置が確認できた。触れても逃げる様子はない。喉に指を当て撫でてやると、猫は目を閉じて顎を上げ、ゴロゴロと喉を鳴らした。  相当人に慣れている。飼い猫だったのだろうか。この周辺に民家はないので、もしかしたら、捨てられてしまったのかもしれない。  すっかり座り込んでいる猫の警戒心のなさに機嫌を良くした棗は、喉を擦りながら、緩やかな弧を描く猫の背中を、頭から順に撫でた。  暗い上に毛もそれなりに長いせいでわからなかったが、猫の肉体はとても細く、背骨が浮いていた。  餌をあげたい気持ちにもなるが、野生の生き物を飼育する場合、学校側に許可を求めなければならない。先輩が野鳥用の餌箱を作るのに、申請だけで三か月かかったと嘆いていたのを、食堂で聞いたことがある。  胸が痛む。部屋にいた時の憂鬱さとはまた違う悔恨に、猫を撫でていた棗の手は止まっていた。  それが不満だったのか、猫はごろりと横になり、自らの腹を見せながら上目遣いに棗を見上げ、もう一度、「にゃあ~」と鳴いてみせたのだった。 「……それは反則だぞ」  どんなに暗闇に目が馴染んでも、闇に溶け込んでいる黒猫の輪郭は捉えられない。  腹を摩っていた棗は、何の前触れもなく、まるで神か何かに啓示でも受けたように、ふと、一つの反抗心が芽生えた。 「…………」  猫をころんと俯せに転がす。逃げていくかとも思ったが、大人しく身を委ねてくれた。前足の両脇を抱えて持ち上げ、浮かんだ腰を片腕で受けて抱える。  不思議そうに棗を見上げるだけで、抵抗も逃亡もするつもりがなさそうな猫。  棗が立ち上がると、急に高くなった景色に驚いたのだろうか、周囲をチラチラ見回していた。  黒猫を抱えたまま踵を返し、裏口から屋内へと戻った棗は、動きにくそうにドアを閉め、施錠もきっちり元に戻す。駆け足で自室へと向かう彼の心臓は、来たとき以上に早く脈打っていた。  腕の中の黒猫はとても温かく、大人しく、鳴きもしない。ただ、成猫にしてはあまりに軽く、教科書が入った鞄の方がまだ重かった。それなのに、鞄よりも軽いはずの猫の方がずっと、腕の疲労が酷かった。
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