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醒めない夢
部屋の隅からガリガリと鳴り響いてくる音は、聞こえないことにした。
蓋が全開にされたまま、床に放置されているダンボールを見て見ぬふりしている棗は、ゴミ箱にも見えるプラスチック製の楕円錐台の箱に蓋をする。設置場所は、昨夜蹲っていた部屋の片隅だった。
これでもう、ここで膝を抱えることはできない。
しゃがむ棗がふとベッドを見上げると、白いシーツの上を陣取って、入念に毛繕いをしている黒猫が一匹。
そいつを拾って帰ってきた後、勉強机の傍らに、ペットボトルの底を切ってビニールテープで切り口を覆った容器を二つ用意した。片方には、人間が飲んでもうまい天然水が入れてある。もう一つは、水で濯ぎ味を消した、ほぐした鶏ササミ。緊急用だが、立派な餌だ。
こんなにも痩せているのだから、すぐに飛びつくだろうと昨夜から様子を伺っていたが、近づこうとすらしなかった。警戒されているのかもしれないと、意識から猫を追い出し一晩眠っても、全く減っている様子がない。
棗の努力など気にも留めない猫は、肉球を舐めては顔を洗っていた。
「……腹、減ってないの? 水くらい飲みなよ」
「…………」
約半日、猫を観察していると、どうやら警戒されているわけではなさそうだった。部屋へ連れてきてすぐに、ウロウロと部屋の中を我が物顔で歩き回り、棗の脱いだ靴の匂いを嗅いでは、口をポカンと開けたままフリーズしていた。ベッドに乗って座ってみたり、机に乗ってみたりと、むしろ好奇心旺盛な性格のようだ。今だってそうだ。棗の側に寄っては来ないものの、棗が退いたベッドを陣取り毛繕いもしている。
水も餌も、ストレスで近づけないのではない。根本的に興味を示さなかった。匂いすら嗅ごうとはせず、遊ぶ物ではないからなのか、観察すらしようとはしない。
人間や部屋の中を警戒しているようにも見えなかった。
それなのに、食事にだけは興味を示さない。時間が経てば口にするかとも思っていたが、いつまでたっても変化がない。
体のどこか――内臓でも弱っているか、病気なのだろうか。病院に連れていった方がいいかもしれない。あぁ、それから、野良猫を室内で飼うのだから、まずは風呂に入れて、部屋の掃除と、落とすと割れたり、誤飲しそうな小さい文房具なんかは、捨てるか片して隠さないと……。
呑気な猫は、ぐるぐると思考が止まらない棗を一瞬見下ろすと、グルーミングの手を止めベッドから飛び降りた。やっと食べる気になったのか――と喜んだのも束の間、餌たちは素通りされ、用意された大きなプラスチックの箱の匂いを嗅ぎ始めている。
大袈裟に溜息を吐いてみたが、察しの悪い猫には通用しなかった。
まだこの場所に慣れていないのかもしれない。せめて自分の匂いくらいには慣れてほしいものだと、猫の鼻先に向けて人差し指を近づけると、猫の興味が移るより一瞬早く、部屋のドアがノックされる音がした。
「棗くん? 入っていいかい?」
振り向いた先のドアは、鍵を閉め忘れていたというのに、棗の許可なく開くようなことはなかった。ドアの向こうから聞こえた知っている声に立ち上がり、目に入ったダンボール箱をベッドの奥へと放り投げる。これで来客にすぐ見つかることはない。
黒猫は宙を舞ったダンボールと同調して飛び上がり、一目散にベッドの奥へと駆けていった。
「……鍵開いてるよ」
そろりと開かれたドアの先に、アーモンドのように大きな目と、寝癖をそのまま放置しているのかと尋ねたくなるほど癖毛の酷い男――棗の友人、多喜乃森明が立っていた。
「物騒だぞ、棗くん。鍵は閉めておいた方がいい」
「どうせおまえしか来ないし」
餌と水の入った簡易的な容器は勉強机の下に隠した。気休めでしかないものの、そうすぐには見つからないだろう。
開いたドアから顔を覗かせたのは、棗のクラスメイトでもある多喜乃森明という少年だ。今年から寮に入ってきた新人だというのに、たった一ヶ月ほどでこの部屋のドアが頻繁にノックされるようになった。犯人は彼だ。
「荷物届いたんだろう? 何が来たんだ?」
「……何で知ってるんだ?」
「足音が気だるそうで、ドアが開けづらそうな音が聞こえたからな」
部屋の玄関で室内履き用スリッパを脱ぎ、振り返って揃えもしないまま、図々しく他人の部屋の中へと侵入してくる。
彼の部屋はすぐ隣だ。生活音こそほぼ聞こえないものの、衝撃音はよく響く。
騒音に文句を言いに来たのだろうか。クラスメイトを直視できず、不規則に胎動するダンボールの方を向いていた。
部屋に一歩踏み入れた森明は室内を見渡すと、わざとらしい動きで腕を組んでみせる。
「相変わらず、君の部屋は物がなさすぎる」
「面白いものは何もない。うるさかったなら謝るから、今日はあまり長居しないでくれないか?」
「理由次第だね!」
ベッドに全体重を委ね腰から落ちていくと、スプリングがギシッと音を立てながら、棗の体が何度かバウンドした。
「部屋の模様替えをしたり、調べ物をしたり、忙しいんだ」
「そんなの、喜んで手伝うよ!」
――そういう問題じゃない。
この寮は、ペットを飼育している者が存在しない。学校もそうだ。花壇はあるが、動物の飼育はされていない。入寮にあたり渡された手引きの本を昨夜、猫から意識を逸らすために読み返していたが、ペットの飼育の是非については記述が見当たらななかった。
許可された、あるいは禁止された前例はあるのか、ないのか、それだけでも知りたい。
部屋の模様替えだけでなく、猫と共に暮らすための生活基盤を整えるための準備と知識が不足しすぎている。時間はどれだけあっても足りなかった。
それに、許可が出ようとも出なくとも、動物を無断で寮内に連れてくることは、容認されないだろう。何よりもそれを危惧していた。
――バレたらまずい。早く帰ってくれ。
暦は皐月を掲げ、大型連休が明けてからというもの、急激に毎日が憂鬱で億劫に感じ、次第に夜眠ることが恐怖になり、原因不明の不調続きで気が狂いそうになっていた。猫と出会ったおかげで、やっとほんの少し、気分がまともに戻り始めていたのだ。
手離したくない。せめて、今はまだ。
帰れ帰れと念を送る棗の努力も虚しく、それを嘲笑うかの如く、ダンボールがまた大きく胎動した。手汗が滲み、掴んだシーツを湿らせていく。いま棗が、視線を音の出処――ベッドの奥に向けてしまえば、きっと森明も釣られて見てしまうだろう。気づかないフリを続ける他なかった。
相手が悪かった。またはタイミングが悪かった。そうとしか言いようがない。森明の好奇心は、棗の挙動をも優に凌駕してしまうまでに広大なものであった。
「……棗くん、大変だ」
ハッと顔を森明へ向けた時にはもう、彼はダンボールのある方を、大きな目をさらに丸くして、穴が飽きそうなほど凝視していた。
「ダンボールが猫を産んだぞ」
棗の葛藤など、どこ吹く風といったところか。ぴょこんとベッドへ飛び乗った黒猫は、慌てる様子もなく、真っ直ぐに棗の側へとやってくる。
「降りろよ……おまえまだ風呂入れてないんだからな。ノミとかいたらどうするんだ」
猫の脇を抱え拾い上げ、膝の上へと着地させた。相変わらずされるがまま大人しい黒猫は、耳だけでなく太腿にも伝わってくるほど大きな音でゴロゴロゴロと喉を鳴らし、瞼を細めている。森明がニンマリと口角を上げながら猫を覗き込んでいたが、フイと目を逸らされていた。
まだ風呂はおろか、ブラッシングすらしていない野良だったというのに、酷く汚れていたり、砂や埃もほとんど付いていない。綺麗好きなヤツなのかもしれない。
小さな頭を指先で掻くように撫でてやると、いよいよ瞼が閉ざされてしまった。
「……荷物さ、こいつのトイレだよ。さっき届いた」
「驚いた。この寮、ペット可だったのか」
「いや、たぶんダメだ」
「だよなあ……? またどうして拾ってきちゃったんだい?」
湯たんぽみたいに暖かい黒い物体の背中を撫でてやりながら、顔を上げた森明と目を合わせる。素早く目を瞬かせながら、小首を傾げられた。
「こいつ、昨日から全然餌食べないんだ。内臓かどこか悪いのかもしれない。こんなに細いのに栄養失調で死んだらイヤだ。何とかして食べてほしいんだけど、水すら口にしなくてさ、とりあえず病院に連れて行きたくて、ああ、その前に風呂に入れてやりたいと思ってて、たぶんもっと毛がふわふわなんだよコイツ、でも暴れるかもしれないから誰もいない時にシャワー室使いたいんだけど、やっぱ寮長に言わないとバレるだろうし、でも命を助けたくてしたことで叱られるのは不服だし――」
「わかった! わかったから落ち着いて」
頭ではわかっていたというのに、言葉として羅列してみれば、一気に不安の波に連れ去られそうになる。猫を撫でる手が止まってしまい、尻尾の先が太腿に弱く叩きつけられた。
運良く誰にも見つからず、猫と共に暮らす許可が出たとしても、まだ課題は山積みだ。持病でも見つかれば、根気よく付き合っていかなくてはならない。保護したせいで死期が早まってしまった――なんてことにはさせたくない。
看取るとしても、せめて彼が幸せに逝けるよう、自分にできることを精一杯してやりたいというのが本意だった。
――もう、誰かが悔いたまま死ぬのを見たくないし、聞きたくない。
聞こえてくる喉を鳴らす声。温もりや鼓動の音、自分に乗っているそれが『生きている』と実感できる全てが愛おしく、守ってやりたくなる。手離したくないと強く思う。
たった一匹の存在は、とてつもない安心を与えてくれるのだった。
「寮長には言ってないんだね?」
「うん。言えないだろ」
「まあな。怖いもんな、寮長」
「うん、なんだろうな、威圧感?」
寮に入る生徒の多くは、期待と不安に怯みながら寮生活をスタートさせる。それらを既に経験してきた上級生たちは、ここは萎縮する場所ではなく、手に入れた自由と青春を謳歌できる空間なのだと代々伝え続けている。親元を離れるというのは、どういうことであるのかと。
それ故に、気持ちが緩み切ってしまう兆しが見られる。高揚することと、行き過ぎる行為を見逃すことは異なっている。
棗の入寮と同時に新しく寮長となった長野諒は、寮内での規律を厳格にしたそうだ。校則や法律を破る、無礼や下品な行動をとる、過去、現在、未来において学校の不利益となる行為をする等、自宅謹慎や成績低下の罰を受ける者がここ一年と少しで格段に増加したという。
新入生だった棗や、今年から入寮した森明は、己を律する態度を崩さなければ良いのだと即座に順応してみせたものの、以前よりここで過ごしてきた寮生たちからは、「厳しすぎる」と避難する声も挙がっている。
信頼はしているが、人間としてどこか近寄り難い。そんな雰囲気を持っているのが、今の寮長であった。
そんな人に「猫を飼いたいから相談に乗ってほしい」と言おうものなら、いかなる結論になろうとも、まず説教から入るというのは想像に容易い。
「飼うのかい?」
「飼う!」
「…………」
棗は、授業料や入学金、その他雑費までもを全額免除された特待生である――その立場上、常に生活には気を配ってきた。寮長に目をつけられないよう、先生に悪評が轟かないよう、生活態度を含めた成績表に影響が及ばぬよう、常に気を張り詰め生活をしていた。
それがある時、プツッ――と途切れてしまった。
規則的な呼吸をしながら、丸まった姿のまま動かなくなってしまった黒猫を撫でていると、棗の気は張り詰めるでも緩むでもなく、程よく伸ばした輪ゴムのような柔軟性を持った気分に浸れるのだ。
理由は分からない。漠然としすぎていて、それを考える取っ掛りすら掴めない。それでもどこか、決意と覚悟が漲っていた。
「こいつを――クロウメを手放したら、僕の方がどうにかなりそうなんだ。大事なヤツなんだよ」
たとえ許可が出なくとも、少なくとも一年間築いてきた学校からの信頼を武器に、戦う闘志が炎上していた。寮長に喧嘩を売りにいくつもりで、その戦いの火蓋を落とすタイミングを無意識に計算し、見計らいながら。
「……クロウメって、この子の名前?」
「うん。黒いから」
「もう少し捻ろうよ……」
ふと浮かんでしまったのだから、仕方ない。
棗に身を委ねていたクロウメは不意に、弾かれるように顔を上げた。何かを発見したのだろうかと手を止め観察していると、棗の元から飛び降り、玄関へと歩いていってしまう。
「どこ行くんだ? 外に出ちゃダメだぞ」
土間まで降り座り込んでしまった。そして棗に目配せし、「にゃー」と鳴いてみせたのだった。
部屋から出すつもりはない。放っておこうと遠目に眺めながら暫く見つめていたが、どうも挙動がおかしい。妙に落ち着きのない様子だった。
外に向けてずっと鳴いているのだ。扉を引っ掻いてみたり、手を付いて立ち上がったり、ウロウロと土間近辺を右往左往したりと忙しない。
ここの壁はそう分厚くない。廊下の足音は意識しなくとも聞こえ、隣の部屋の会話も、壁に耳を付ければ内容が丸聞こえだ。隣人である森明はこの部屋にいるからいいとしても、そんなに扉の近くで鳴かれると、この部屋の前を通りがかった者に気づかれてしまう。
「鳴き声でバレそうだぞ」
「もう……」
渋々、クロウメが動き回らないよう抱きかかえ、扉を解錠し、扉を開いた。
すると、今まで大人しかった彼は突然暴れだし、棗の腕からするりと抜け出して走り去ってしまった。
「あ……ッ! やばい、逃げた!」
「ええっ!?」
廊下を走っていく猫に迷いはない。見えない獲物でも追っているのか、見たことすらないはずの寮を駆け抜けていってしまう。
棗と森明も慌てて追いかけるが、小さい体ながら素早さでは一向に適わない。見失ってしまう危うさとの瀬戸際に緊迫しながら、走ってはならない廊下を加減なしに走っていく。
やっと追いついた時には、とあるドアの前で鎮座していた。棗や森明の部屋ではなく、中等部の上級生である三年生の部屋。顔は知っていても名前は知らない。話したことなどあるわけがない人の一室だった。
「他の部屋はダメだ! 帰るぞ」
脇の下に手を入れ持ち上げてやると、啖呵を切ったようにクロウメが大声で鳴きだした。驚いて手を離しかけるがなんとか堪える。
まだ出会って一日程度ではあるものの、クロウメはほとんど鳴かない猫だと思っていた。出会った時に二回ほど鳴いてみせたきり、彼の声を聞いた試しがない。人懐っこく好奇心旺盛で、呑気な性格だと見ていたが、こんなにも強引な一面もあるとはあまりに想定外だった。
頻繁に騒ぐようならば、寮でこっそり飼うなど夢のまた夢だ。他人と共同生活をしている以上、他の寮生に迷惑はかけられない。
棗に抱かれながら、クロウメは声が枯れかけているほど鳴き叫んでいる。ただ鳴いているのではなく、何か、主張したいことがあるのかもしれない。
――そうはいっても、さすがに他人の部屋には入れない。
帰ろうと振り向きかけた棗の横で、もう一人の好奇心旺盛な男が、ドアを強めにノックしてしまった。
「森明!」
「何があるのか気になるだろ? 他にもこっそり猫飼ってる人がいるのかも。マタタビとか置いてあったりして」
「…………」
気が引ける。何も事が起きなければ、猫の存在が明るみになるだけである。こちらの不利益でしかない。
子供を育てる親というのは、きっとこういう気分なのだろうと失笑する。こちらを見もしない森明は、返事のないドアにもう一度ノックし、クロウメは大人しくしてはいるが、ドアを鋭く睨みながら、「ウウゥゥゥ……」とか細く鳴き続けていた。
「すみません! 二年の多喜乃森明ですが、誰かいらっしゃいますかぁ?」
数秒間、沈黙の時が流れた。ドアの向こうからは返事はおろか、人の気配がしない。物音一つ聞こえない。森明はドアに耳を当てながらノブを捻り、戸を押して開けようとしていたのでヒヤヒヤしたが、しっかり施錠されている。
彼は二回だったノックを六回に増やしながら、また声を上げた。
「あの〜!」
「――何か用?」
帰ってきた返事は部屋の中ではなく、外からだった。
「あ、この部屋の方ですか?」
「いや、違うけど。友達。ここに何か用? なんで猫いんの?」
「拾いました」
「拾うなよ」
「玄関のドアと床の隙間に、宿題のプリントを落としてしまって……開けてもらわないと取れなくなってしまったんです」
「そりゃ難儀だな。でもこいつ、金曜日授業休んだんだよ。昨日も今日も部屋から一歩も出てこなくてさあ……食堂にも来てないんだ。呼びかけても返事がない」
「それ……まずいんじゃないですか? 病気か何かで倒れてるかも」
「…………」
その場の空気の温度が、一瞬にして下がった気がした。
「寮長……呼んできた方がよさそうだな?」
「うん、なるべく早く!」
マスターキーを持っているのは寮長だけだ。ドラマのように蹴飛ばしてドアを壊せるほど簡易で脆い作りにはなっていない。
踵を返そうとした棗の両肩に、ポン、と手が置かれた。あまりの気配の無さに、そこにいた全員が息を呑む。いつの間にか、両手に白い手袋を嵌めた細身の男がいたのだった。
森明や先輩は何の反応も示さなかったが、棗は気づいた。彼は生徒会の副会長だ。現生徒会役員で唯一、この寮に住んでいる生徒。
下手をしたら、寮長より厄介な人物と遭遇してしまったと、嫌な汗が滲むのを感じながら固唾を呑んだ。
「――何の騒ぎ?」
「宿題のプリント、過ってこの部屋に落としてしまったんです」
息をするように咄嗟の嘘を繰り返せる森明を、今だけは頼もしいと思わざるを得ない。
「そう。……部屋の中、音、する?」
「しないんです。金曜日からずっと声掛けているんですが、反応がなくて……もしかしたら病気か何かかと……」
「僕が寮長を呼びに行きます」
「待って」
肩に置かれた手の力が、また強くなった。意外と力が強く、食い込む指に痛みが走る。
待て、と言ったのはそっちだというのに、副会長はそれ以上何も言わず、黙ってしまった。
「……あの……離してもらえますか?」
「…………」
「何か知ってるんですか?」
「…………」
「教えてください! 意識がないなら救急車を呼ばないと手遅れになるんですよ!」
「…………」
肩越しに睨み上げ目を合わせているはずなのに、視点が合っていない気がした。彼は一体何を見ているのだろうか。
何もないのならそれでいい。万が一心臓や脳の発作によって意識がなくなっているのだとしたら、今すぐにでも助けなければならない。考えたくはないが、金曜日から既に丸一日以上が経過しているのだ。最悪の事態すら想定できる。
なぜ邪魔をするのか。部屋に押し入るわけでもなく、何がしたいのか。
手を振り払い強引に逃れてもよかったが、ほんの僅かに、彼が何かを知っているのではないかという疑問が捨て切れず、動けない。
副会長は棗の肩から浮かせた片手の指を顎に這わせながら、ハッとしてドアの方を見た。
「そうか、『生理現象』……それがあった、そうだな、そうかそうか……」
何の話をしているのだろうと首を傾げてしまう。意味ありげな独り言は、棗の警戒心を煽るだけだった。
「彼に、おはようって、伝えて」
それだけを言い残し、夢壱はすぐに立ち去ってしまった。森明を横目で見てみれば、怪訝そうな表情で副会長の背中を睨みつけている。
腕の中のクロウメは、いつの間にやら瞳が消失し、呑気に眠っていた。
それぞれが違う方向を向きながらこの場にいるせいで、余計に混乱してしまいそうになるが、とにかく今は先輩の安否確認が最優先だと思い直す。両手が塞がったままドアと向き合った瞬間――ガタンッ――と部屋の中から何かが落ちる音が聞こえた。
「……今……」
中山のクラスメイトを名乗る先輩を咄嗟に見てしまう。ほんの一瞬目が合うと、彼は弾かれたようにドアへと飛びついた。
「中山!? 中山!! 大丈夫か!? 救急車がいるなら床を叩いて返事してくれ!!」
ドンドンと激しくドアを叩きながらそう叫び、そのせいで野次馬たちが集まってきてしまった。これはまずい、と周囲に背を向け体を丸めながら、手に持った眠りこけている黒い毛玉を必死で隠す。
部屋の中からは、「あ――……」と、こちらも緊迫した状況に反し、中途半端に気の抜けた声が聞こえてきた。
「悪い、開けないで! 今起きた! 大丈夫、何ともない! すまん、説教は後でいいから、三時間後に来てくれ!」
「何で!?」
「いいから! 後で話すから!」
――何ともないのか、よかった。
ホッと胸を撫で下ろす棗の姿を、ギャラリーたちとの間に立つことで隠しながら、集まってしまった寮生に大声で解散を呼びかける森明。
「すぐ寮長が来ますから、関係ない人は帰ってくださーい!」
洗練された寮生たちは、寮長の名を出すだけで大人しく四方に散っていく。日頃は萎縮している側ではあるが、こういう時には厳格な人が寮長で良かったと感謝してしまう。
部屋の方へ意識が奪われていたせいだろう。こんなに騒がしくしても目を覚まさないクロウメが発見されることはなかった。
まだ誰も寮長に知らせてはいない。また森明のハッタリだろう――そう思っていたというのに、野次馬と入れ替わるようにして、本当に寮長が部屋へとやって来た。慌てた様子もなく、集まっていた人の人数に困惑すらしている様子だった。
さすがに、寮長にまでは隠し通せない。眠っているせいで動かないので、ぬいぐるみか毛布ということで押し通せないものだろうか。
棗の意図を察したのか、森明が率先して寮長の前へと立ちはだかり、ここまでにあったことを説明してくれた。
存在しない宿題の話は、いつの間にやら無かったことになっていた。
「――そうか。彼が望むなら君たちは一旦部屋に帰るんだ。後で個別に話を聞くかもしれない。あとは俺に任せろ」
「はーい!」
「中山……よろしくお願いします、寮長」
「ああ」
助かった――気持ち程度に一礼した棗も、そそくさとその場を後にしようとした。
「月光」
「……はい?」
「今は緊急事態だから見逃すが、腕に抱いてるそれの件も、後で聞くからな」
「…………」
目が合った森明と、互いに苦笑しあってしまった。
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