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奇跡の力
――『二年の中山、困ってる。たぶん』
高等部現副会長である氷雅夢壱の声が聞こえた気がしたが、振り向いた時には彼の姿はもう見えなかった。会長があまりに煌びやかなせいか、存在感のない男だとは思っていたが、得体を知れば知るほど、掴みどころのない奴だ。
寮長といえども、全寮生の生活を常に監視し管理するのは不可能である。ある程度は各々の自主性に委ねなくてはならない。
だからこそ、彼は知らなかったのだ。
授業を欠席する寮長の報告は受けるが、休日にどこで何をしているのか把握するつもりはない。本人かその周囲が、自分の元にまで報告をしに来てくれない限りは。
軍隊のような規律は、柔軟な思考力を奪う。ここは学校だ。上官が全て指示を出し、兵士は統制さえ取れれば良い、そんな場所ではない。自ら考えて行動し、豊かな発想力と知能、そして知恵を育む場所である。
その指針は、誤りだと思わない。しかし、このような事態は今後いかようにして防いでいくべきか、決めていかなければならないだろう。
友人すら、思いもよらない出来事だったのだ。寮長だからといって、友人でも同級生でもない者の事情など、知る由もない。
丸二日以上も目を覚まさなかった――そんな奇妙な珍事を、予め想定しておくのは無理というものだ。
ラフな格好で構わない、と告げたため、体操服であるジャージ姿で現れた中山を、寮長室――諒自身の部屋に招き入れ、粗茶も用意したのだが、中山は手をつけようとしなかった。フー……と長く息を吐くと、机を挟んだ向かい側の椅子に掛けている当事者が、申し訳なさそうにチラチラと顔色を伺ってくる。
私立であるこの学校では、週休二日制度を採用しているため、土曜日、日曜日の二日間は授業が行われない。その制度に合わせて、保健室に常駐する学校医も、この二日間はいない。
医学の専門知識は乏しいものの、寮内で起こったのであれば自分の責任だと、諒は自ら事の発端を調べることとなった。
彼が来るまでに、どうも胸に引っかかったまま腑に落ちない点があった。
なぜ夢壱は、部屋の住人が『困っている』と知っていたのだろうか。
森明からの報告では、『倒れているかもしれない』としか報告を受けなかった。部屋は中から鍵が掛けられていたため、妥当な判断だ。
しかし夢生は、『困っている。たぶん』と断言した。苦しんでいるでも、何ともないでもなく、『困っている』と。最も諒を困惑させているのは、その告げ口が的中していたという事実だ。
「氷雅先輩と君は……知り合いなのか?」
中山にそう尋ねてみても、彼は緩く首を振りながら「全然、話したことすらないっス」と答えた。
窓から見える空は、雲に覆いつくされている。靴を脱いだ室内では、スリッパ越しでも足先から冷やされていく。
四年前から、この寮には全室に冷暖房が完備されたため、室温をある程度一定に保つことはできるが、それでも末端は冷える。平熱もごく平均的な諒ですら、留まり続ける冷気を感じているというのに――靴下すら履いておらず、ジャージの下の肌着も忘れていたと嘆いた中山の頬は、先程から、部屋に来た時からずっと、紅潮していた。
体温にも配慮して温かい日本茶を淹れたはずだったが、彼が手をつけないのは遠慮しているからというよりも、単に体が火照るため、高温の物を口にしたくないのかもしれない。
――やはり体調が悪いのかもしれない。丸二日も眠るなんて、もはや寝坊ではない。『昏睡状態』というのだ。
ピピピピッ、と機械が鳴る音が聞こえ、中山に渡していた体温計がジャージの奥から取り出され、すぐに渡された。
「平熱は?」
「三十六度二部」
「…………」
不調なのは体温計の方かもしれない。表示された数字は『三十五.〇度』だった。
――ならば彼の頬の紅潮は一体何だ。熱の上がらない病か何かだろうか? 感染症だったらまずい。
寮長として、今自分が何をすべきなのか。
何をしたら、彼を利用して自分の評価が上がるのか――沸かし直していた電気ポットがそろそろ保温に切り替わった頃だろう。いつまで経っても飲まれない粗茶ではなく、自分のために玉露を入れるべく、諒は席を立った。
来客用の接待用具が揃う棚から茶葉の入った缶の一つを選び、スポンと蓋を抜き、中身を茶こしへ落としていく。
ふわりと漂う煎茶の香りに、肩の力が抜けた。
「――夢、見てたんス」
ポットから湯呑へと注ぎ入れる水の音に重なり、椅子に足を乗せ膝を抱えながら呟いたその声は、どこか浮き足立っている様子だった。
「とんでもなく長い夢で……でもすごく居心地が良くて……何て言えばいいのかな、天国にいるような気持ちだったんです。このままここにずっといられたら幸せだろうなーって、ずっと思いながら過ごしてて」
仄かな甘さと苦さの混じりあった香りがふわり、湯気と共に湯呑から漂ってくる。茶こしを退ければそれはさらに濃厚になり、噎せ返りそうなほどだった。質の良い茶葉は匂いだけでわかる。
しかし毎日玉露を飲んでいたら、この香りにも飽きるだろう。いつまでも舌に残り続ける苦味にも慣れてしまうだろう。稀に飲むから質の高さに感動する。比較できる味を知っているから複雑さを実感できる。
希少性のあるイメージで、少なくとも現実より心地良く感じられる夢を見ていた――と彼は言いたいのだろう。でなければ、『天国みたい』などという言葉は出てこない。それがどのような場所であるのか、具体的な答えがおそらく彼の中にある。
夢とは、睡眠中に行われる記憶の整理だ。人によっては、自分が夢の中にいると自覚し、ある程度コントロールできる者もいるという。
――コイツは、目覚めたくないから、そんなに長い間寝ていたのだろうか。過度のストレスか、不安か、悩みでもあるのかもしれない。
これは単なる病よりも厄介かもしれないと、諒の眉間に皺が寄った。
「以前から不眠症、あるいは過眠症である自覚は?」
「……何もないはずっス。多少遠足の前とかに眠れなくなるくらいで、夜は寝れますし、いつもは寝すぎると体が怠くなるんで」
専門的なことはわからない。無駄な時間は過ごしたくない。これ以上は踏み込んでも、自分では対応できないと察した。
諒の仕事は、トラブルの原因解明と部屋の清掃、そしてそれらを学校に報告するところまでだ。自分のやるべきことを見失わないよう、まだ冷めていない煎茶を二口ほど飲み込んだ。
フー……と熱い息を漏らし、中山が座る方へ振り返る。彼はジャージの袖を伸ばし、湯呑を片手で掴み一気に飲み干していた。
「わかった、ありがとう。手間を取らせてすまなかった。戻っていいぞ」
「はい」
コン、と強めに置かれた湯呑を見る限り、精神的な悩みがあるようには見受けられない。
もし、夢壱が何か知っているのだとすれば、会長から連絡があるだろう。それを待てばいい。興味本位で深堀りしたところで、寮長としての評価が上がるわけでもない。
自分の評価さえ下がらなければ、それでいい。
全ての邪念を払い除けるために、諒はまた、フー……と深く溜息を吐いた。
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