奇跡の力

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 帰ってきたクロウメは、とてもふわふわになっていた。  昼休みの間に電話を使い、動物病院の予約と外出許可を取得。日用品の調達を外出理由として提出し、日用品である猫の健康を手に入れるため、棗は森明と二人、学校の敷地内を飛び出した。  動物病院に事情を話すと、特別に入浴とダニ、ノミ駆除の薬を塗ってくれるとのことだった。健康状態も悪くないが、大きさの割に体重が軽いため、ご飯はたくさん与えてくださいと言われてしまう。  食べてほしくても、水すら飲まないと伝えたが、原因は結局わからなかった。風邪や病気ではないから、ストレスの可能性が高い。猫用の餌やミルクを、好きな時に自由に食べられる状態で暫く様子を見てあげてください――そう獣医に教えられた。  とにもかくにも健康であるとは確定し、部屋に戻ってすぐにクロウメを自由にさせた。猫が苦痛なく入りそうな鞄が無かったため、ダンボールに空気穴を開けてタオルを敷いたものを持っていたため、不自由な思いをさせてしまった。  一目散にダンボールを飛び出したクロウメは、ベッドの上に登り、自分の体を舐め回している。彼はベッドがお気に入りのようで、棗の寝床は頻繁に奪われていた。  棗もそこに腰掛け、人差し指を顔に差し出せば、クンクンと匂いを嗅いでいる。広げた手のひらで頭を撫でてやると、心地良さそうに目を細めていた。 「毛並み良くしてもらってよかったね!」 「うん。もふもふだ」 「どれどれ?」  ベッドの前に膝を着いた森明は、毛並みではなく、寝転んだ体勢のせいで丸見えになっている前足の肉球をつついていた。 「これはこれは……なかなかのものをお持ちで」  こうしてのんびりと流れる時間を過ごすのは、いつぶりだろうか。クロウメを拾った夜からずっと落ち着かなかったが、漸く安心して触れられる。  森明に遊んでもらっている間に、棗は病院から分けてもらった餌とミルク、そして買ってきたミネラルウォーターを、それぞれ猫用の皿に入れていく。  これも街で買ったものだ。肉球の柄が付いていてわかりやすいものを選んできた。  寝床はベッドを譲ったって構わない。トイレは初日に用意した。餌もとりあえず一週間から二週間は持つだろうと獣医も言っていた。  環境は整えた。あとは――学校から公認されるだけだ。 「……あ!」 「どうした?」 「宿題やるの忘れてた」 「……あ」  学校の存在を思い出したせいで、釣られて思い出してしまった。  もう陽も沈み、今度は自分たちの入浴の時間が迫っている。決められた時間を逃すと、これもまた寮長に許可を得なければ時間外の入浴は認められていない。  就寝前にやってしまう他なさそうだ。  ――だが、せめて今だけは何も考えたくない。  つつかれている前足をおずおずと引っ込めたり、追われたりと攻防を繰り返しているクロウメの元へと戻る。餌の皿からドライフードを一粒拝借し、リラックスしている猫の口元へ差し出してみたが、匂いを嗅ぐだけでやはり口を開こうとはしない。  まだ完全に心配事がなくなったわけではない。彼がストレスを増やさないよう、きちんとした付き合い方をしていかなくてはならないのだ。  宿題も入浴も全て放棄して、もふもふした黒い物体を撫でるだけの作業に徹していたいところだが、特待生としてそれはまずい。  指で頭を掻くように撫でてやれば、クロウメの喉がまたゴロゴロと鳴っていた。 「なーんでウチの学校は作文の宿題が多いんだぁ〜?」 「さあ。想像力を養うため?」 「だったら読めばいい! 書く必要はないと思うね!」 「いいから、口より手を動かせよ。終わらないぞ」  ――芥川龍之介作、『地獄変』。  こんなえげつない作品が中学生の教科書に載るのもどうかと思うが、大型連休が開けた後の生徒たちの気分をそのまま示しているかのような題名をしたこの作品を、少しずつ読み解きながら国語を学んでいた。  一通りの学習の総評として、原稿用紙二枚が渡され、明日までに作品の感想を書かなくてはならない。  感想――と一言で済まされてしまえば、「おもしろかった」、「つまらなかった」、「胸が痛かった」などと、こちらも一言で返してしまいたくなるところ、『総評』と複雑な語彙を用いてくるあたり、担当の国語教師が、普段から言葉というものをどう扱っているかが伺える。  読書感想文が苦手というクラスメイトが、今の国語の先生に教えてもらうようになってからというもの、感想文が好きになったと話しているのも聞いたことがあった。  三十代後半の既婚者の女性だが、彼女はいつも容姿に気を使い、生徒の理解度と意欲に寄り添い、しかし決して生徒に対し敬語を崩すことのない人だ。  彼女は言う。「感想文とは、あなたたちの価値観全てを用いて書くものです。なぜ良かったと感じたか、なぜ嫌いだと感じたか、それを他者にもわかりやすく説明した文章……それが『感想』です」と。  どうせ私しか見ませんから、何でも好きなように思ったことを書いてください。あなたにしか書けない感想を、ぜひ教えてください――そう言って、クラス全員に原稿用紙を二枚ずつ配った。  棗は彼女を尊敬していた。国語の授業や、感想文を書くこと自体に不満があるわけではない。宿題という、即座に終わらない形にされるのが不満なのである。  原稿用紙の一枚目を半分書いたところで、机に登ってきてしまったクロウメに意識が全て奪われてしまい、棗は鉛筆を置いた。 「棗くんはどんなの書いてるんだい?」  勉強机はベッドと同じく、寮の各部屋に初めから備え付けられているが、それも一人用でしかない。わざわざ自分の部屋から椅子だけ持ち込み、無理矢理隣で原稿用紙を広げている森明は、棗と共にクロウメへ意識を奪われながらも、控えめにそう尋ねてきた。  その眼はどこか、空虚な含みがあるような気がした。 「『天国』について……書いてる」 「……『地獄変』の感想に天国の話するなんて、イキだねえ、棗くん」  大したことじゃないよ――と、棗は軽く続けた。  ――地獄をより鮮やかにするためには、天国の定義をハッキリさせた方が、より残酷さが増すと思っただけだ。  つまり、黒い猫を見つけるためには、暗い外の地面よりも白いシーツの上の方が最適であると――そういうことだ。  宿題の邪魔をしに来たクロウメは、尻尾を机に脱力させながら左右に揺らし、前足を畳み座っている。尻を向けられている森明の原稿用紙が一枚目、尻尾に弾き飛ばされ床に落ちていった。喉元を撫でてやれば、そこを晒すように顎を持ち上げながら目を閉じている。  真っ黒な物体が机を占領していた。 「僕、一歳になる直前で父親が死んじゃってさ。昔からよく考えてたんだ。死んだらどうなるんだろうって。どこへ行くんだろうって」  邪魔されているのだから仕方がない。不可抗力だ。棗が机に転がる黒い枕に身を委ねようと頭を下ろしかけた刹那、森明がポケットから何かを取り出した。  ネズミの形をした小さなぬいぐるみの玩具――事情を知った動物病院の獣医がくれた私物だ――。ご丁寧に細長い尻尾まで付いており、そこを摘みながら振り子の如く左右に揺らすものだから、クロウメがむくりと身を起こしてしまった。  ぬいぐるみは無惨にもベッドの上まで放り投げられ、猫型に変形した黒い物体が、宙を舞いながらネズミを追いかける。机上から邪魔なものが消えてしまった。 「父さんがどこにいるのかは知らないけど、もし天国や地獄があるのならば、どんなところだろうって。諸説あるけど、僕にとっての天国や地獄はどんなところを指すだろうかって……考えてる」 「……いい着眼点だね!」  ――答えなんて、本当は存在しないのかもしれないが。  一枚目を半分だけ埋めた原稿用紙に、黒い毛が一本落とされていた。まだここまでは序盤だ。ほとんどあらすじを纏めただけの文章なら、棗でなくとも書ける。  作品の中の主人公も終ぞ追い求めていた、『リアリティ』。空想の残酷さではなく、あまりに自分が無力で、どんなに踠き、足掻こうとも、その実掴めるのは実態のない幻――そんな、絵に描いたような(・・・・・・・・)『絶望』は、経験のある者にしか描けないし、発想すら湧かないだろう。  悲しいとか、悔しいとか、歯痒いだとか、そういうレベルではないのである。  しかし、地獄の基準は人それぞれ異なる。喪失感を地獄と例える者もいれば、飢餓や不眠を地獄と言う者も、過労を地獄と表す者もいる。リアリティを求めすぎれば、共感や理解を得られなくなってしまう。  そこで棗は、『天国』とはどんな場所であるのか出すことで、対比して、『それが得られない場所が地獄である』と締め括る後世に決めたのだった。  漠然と想像したことはあるが、何があるだとか、何ができるだとか、誰がいるだとか、細部の想定はしていない。  横目でちらり、モゾモゾとネズミを齧っている漆黒の毛玉を盗み見ていた。 「死後の世界か……今を生きるのに必死すぎて、漠然としか考えたことないや」 「そう? 何があって、何が見えて、何が聞こえて、誰がどれくらいいて……とか、考えたことない?」 「ない。だってホームズは天国にも地獄にもいない」 「いるかもしれない」 「いないよ。実在の人物じゃないんだから」 「それは……まあ、そうだけど」  ――森明は、フィクションに対して時々すごく冷たい。  コナン・ドイルの名作『シャーロック・ホームズ』が好きだと彼は言うが、登場人物のいずれかが好きなわけではないという。存在しない人物に好感を持つなんて変わっているとすら言われた。  彼は、作品のストーリー性、語彙、登場人物それぞれが持っている哲学などが面白いのだそうだ。それらを好きということは即ち、作者であるコナン・ドイルが好きなのであって、ホームズやモリアーティ教授が好きなわけではない――そう明言していたのを覚えている。  ファンである点には変わりはないので言及はしないが、どこか人とズレた感性を持っている奴だとは思っている。  そんな彼が、『地獄』や『天国』などとフィクションの世界に興味を示したのが、嬉しかった。  ――森明にも想像がつきやすいような、現実にある幸福だけを集めた世界の話をしよう。  書くことを決めた棗は、横目でクロウメの姿を確認してから鉛筆を取った。ネズミは熱烈に抱きしめながら噛み付かれていた。 「天国の話って、原稿用紙二枚で収まる?」 「収まらないけど、収めるんだよ。全部は書かないから」  鉛筆の後ろで頭を掻いている森明の原稿用紙は、未だ名前と題名しか書かれていない。おまえも早く書けよ、と書きながら助言すると、下から顔を覗き込まれた。 「参考程度にさ、俺が聞いたら話してくれる?」 「何を?」 「棗式、『天国と地獄』」  歯を見せて笑う人懐っこい表情に、棗も思わず手が止まり、顔が綻んでしまった。友人の頼みを断るなんて、理由を探す方が困難極まる。  宿題が終わるまで、まだもう少しかかりそうだ。もう暫くはクロウメにベッドを譲ってやってもいいだろうと、天界人のような大らかな気持ちになっていった。  * * *
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