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七人の俺
目の前に「俺」とは違う俺がいる。正確には俺ら。鏡で見飽きるほど見た顔だが、今は鏡を見ているわけではない。そいつらは自分の意志というものを持っているらしく、口々に言い合っている。五人、いや「俺」も含めると六人。状況が飲み込めない。何が起こっているのだろうか。
確か「俺」は大学二回生の春休みを謳歌していたはず。大学に入りたての頃は講義やサークルの新歓などで多忙な日々を送っていた。気付けばすっかり慣れてしまって、今ではバイトと遊ぶことしか考えていない。去年のクリスマスの直前には人生初の彼女ができた。もちろん友達に誘われてなんとなく入ったサークルで仲良くなった女の子。「俺」は日本に何百万といるようなアイデンティティの欠片もない典型的な能天気ハッピーボーイ。自覚はしている。よし、自分は記憶喪失ではない。
この状況に陥った原因を探るため、記憶を辿る。それでもやっぱりこの状況はよく分からない。「俺」に似たやつが複数存在すること。このことは後で考えるとして、そもそもなぜ俺らは官僚たちの会議室のような場所にいるのか。中央に置かれた大きな円形のテーブルに向かい合って何を話し合っているのか。
……そうか。分かった。この状況が導き出す答えは一つ。
夢だ。絶対にそう。戸惑っていてもしょうがない。一度話を聞いてみることにする。
「俺」の右隣に座る奴。見るからに意気消沈している俺だ。精気を全く感じさせない顔をしている。
「この頃さ、彼女の反応が薄くて困ってるんだよ。そもそもベタベタする子じゃないし、電話とかもほとんどしないんだけどね。友達には淡白な彼女だなって言われたこともある。それでも俺はおとなしくて落ち着いてるだけだって否定してたんだけどさ。最近は遊ぶ場所を提示しても、いつなら遊べるかと聞いても、はぐらかされてうまく避けられている気がするんだ。これはたぶん俺のせいなのかな。いいや、間違いなく俺のせいだ。俺が面白くないから。自分から話を振って、彼女が笑ってくれたことなんかあったっけ。話題はすぐに尽きる。話さなきゃって思うほど何も話せなくなる。そもそも話題を用意している時点で雑魚だよ。コミュ力と人を楽しませる能力って勉強すれば身に着くもんなのか?」
ネガティブだなこいつ。悪循環という言葉を知らないのか。なぜそこまで自分を責める。まあでも、言いたいことは分かるぞ。
いや、そんなことよりもこいつらは彼女のことで揉めているのか。ちっこい悩みだな、おい。まあ状況は少し把握できた。
このネガティブボーイの右隣に座っている別の俺、つまり「俺」の隣の隣に座る奴がなんか喋りだした。こいつの話も聞いてみよう。
それにしても今から話し出す俺はなんとも馬鹿そう。こいつから滲み出ているのは「軽さ」のみ。知的なふりをしているつもりかもしれないが、断じてそんなことはなく、誰の目から見てもアホっぽい。そのことに気づいていないタイプだろう。
「おいおいネガティブ君、辛そうな顔してんねえ。小説に映画、ドラマにゲーム、人生女がいなくても楽しくて身になることが山ほどあるぜ。これのおかげで俺は圧倒的な語彙力を手に入れたというわけ。コミュ力も人を楽しませる能力も勉強次第でなんとかなるんじゃないか?まあ、俺のレベルになると女の存在が邪魔で仕方なくなってくるんだけどな。スマホのカメラのくせに、誤差みたいな角度を気にして何枚も何枚も撮り直しする。彼女のペースに合わせてわざわざゆっくりと飯を食う。ジェットコースターが怖い彼女を気遣って観覧車にしか乗れないようなデート。思い出しただけでもバカバカしい。無駄すぎる。全部趣味に当てた方がよっぽど有意義で刺激的ってもんだ」
世界中の女性を敵に回したような発言ではあるが、一理ある。
この春休みの間、いろんな作品に触れた。なんとなく太宰の小説を読んでみたり、「有名な映画」で検索して出てきた洋画をレンタルショップで片っ端から借りてきて観たりした。無駄な時間を過ごしていないと感じられたし、世界観が広がった気がした。
これは後から付け足した理由付けなのだろうか。彼女と遊べない時間の埋め合わせに小説や映画を利用しただけなのかもしれない。
そんなことよりも、この娯楽大好きな二人目の俺。自分に酔いしれ、世の中のことは何でもお見通しなんだという感じが滲み出過ぎている。客観的に見ると俺ってこんな顔なの?ヘラヘラと話す姿にイライラする。以後、気を付けるとしよう。もうこいつの話はいい。次だ、次。
娯楽大好きボーイのさらに右隣にいる三人目の俺、つまり「俺」の正面にいる奴。顔を歪めながら泣いていた。女性のようにしくしくと泣いているが、今年で二十歳を迎える男の顔はただただ汚い。悪いけど話を聞く前から同情する気にはなれそうもない。男が泣いていいのは母親の葬式だけだって誰かが言ってたぞ。
「俺はさ、ほんと頑張ったんだよ。なのに誰も認めてくれないじゃないか。友達に相談してもみんな同じことしか言わない。倦怠期お疲れさん、頑張ってねって。俺は、慰めて欲しいの!恋愛相談を受けたときに大事なのはその人の身になって考えることだろ。俺はしてた。親身になって一緒に考えて、背中をさするくらいのことも。まあ確かに、恋愛経験は乏しかったけど。それは関係ないじゃん。ほんとに困ってるときに助けてくれない友達なんか、作らなきゃよかった」
褒めてもらうか慰めてもらうかして共感されないと生きられない奴。小学校で少なくともクラスに一人はいたなぁと、しみじみ思い出していた。こいつは大学生になった今でも抜け切れていないようだ。しかも友達の存在否定。ははあ、自分は悪くないと。ネガティブよりもたちが悪い。救いようのないやつだと感じていたちょうどそのとき、そのまた右隣に座る四人目の俺が泣き虫の俺に嫌悪感をあらわにして話し出す。
「こういうことを平気で言う奴が一番気持ち悪い。その自覚はあるか?頑張ったっていうのは自分が決めていいもんじゃない。他人が決めるもんだ。どうせ、恋愛相談を受けたときも適当に返してたんじゃないのか。神妙な顔して『自分の心に従うしかないよ』とか言ってたんだろ?……ほら。やっぱりな、その顔は図星だな。そもそもほんとに頑張ってるやつは褒め言葉なんか求めないんだよ。恋愛が上手くいかないくらいでメソメソすんな、ボケ。気持ち悪くて虫唾が走る」
言葉は汚いが、良いことを言う。「俺」の気持ちをほぼ完璧に代弁してくれた。素晴らしいぞ、四人目。ただこいつは自己嫌悪が激しすぎる節がある。汚い言葉も自分を叱咤するためのものなのか。三人目の俺と四人目の俺を足して二で割ればちょうどいい奴ができそうだな。
もう一つ。途中の言葉にひっかかるものがあった。
『自分の心に従う』
この時点で四人も俺が出てきた。どれが本物の俺なんだ?
そして本当の心はどこにある?
分からない。全く分からない。現時点で答えは出そうにない。
五人目は「俺」の左隣にいるわけだが、声を掛けることができなかった。なぜならそいつは明らかに怒っていたから。いや、そんな生易しいものではない。激怒に近い。最初から目を閉じて静かに四人の話を聞いていた。そしてゆっくりと目を開けた。やっと自分の番が来たのかと。
「お前らの話には俺しかいない。全部、俺だ。俺のことしか頭にない。自分がこの世の理であり、正しいと勘違いしている。本当に愛しているのは自分自身。相手を思いやる気持ちっていうもんが欠片もないんだ。つまりは自己中なんだ。もっと大事なことがあるはずだ」
これまた新しい意見が出てきた。少し感動。ごもっとも。「本当の心」の答えがこんなにも近くにあるなんて。
五人の視線を感じた。お前は何も言わないのか、という顔をしている。あ、これ順番あったのね。ちょっと待って、まとめるから。
この五人の意見を聞いて浮かんだのは「情けない」という感情。驚くほどの自己矛盾を繰り返している。このままでは細胞分裂のように増え続けそうだ。
すでに答えは出ている。そのことにはとっくの前から気付いている。「俺」は言葉にして行動に移すのが怖いのだ。
「えー、分かったのは自分が恋愛初心者であるということ。友達に相談を試みるも軽く受け流された俺は、大量に自分を生み出す。そして自己完結して何とかやり過ごそうとしているわけだ。俺は彼女が好き?それとも自分のことが好き?たぶんこの答えはどっちもだ。どこから間違えた?どうすればよかった?もっといい方法があったんじゃないか?たぶん俺はずっと悩み続ける。だってこういう性格なんだから。分からない。誰も教えてなんかくれない。自分の力で解決するしかないんだ。……もう、自分でも何を言っているのか分からない。答えは単純明快のはず。ほんとは悩む必要もなかった。逃げてるだけだ。もうやめにしよう。日本の底辺会社に就職しても、流石にこんなに効率の悪い会議はしてないって。こんな話し合い、する意味がなかったんだ。頼むよ俺。しっかりしてくれよ、俺!」
目が覚めた。本を枕にしていたせいで顔に痕が付いている。何ページまで読んでいたのかは全く覚えていない。こんなにもはっきりとした夢を久しぶりに見た。これから俺がすること。しなきゃいけないこと。この一か月、悶々としていた気持ちが噓のようだった。お涙頂戴の映画はもう観ない。さっさと返却しようと思った。
「なんで六人もいて誰一人として住所覚えてないんだよ」と愚痴りつつ、そう多くない年賀状を広げて漁る。そうして繊細な文字で書かれた彼女の筆跡を見つける。財布の中身を確認する時間が惜しい。震える指で何とか財布のチャックをつかんで開ける。二千円。たぶん足りる。親の「片づけなさい!」という声。遠くで響いている。都合の良いことに、今の俺は耳が悪い。
七人目の俺は、家を飛び出した。
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