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終わりまで1年
最初の花が咲き始めたのは、遠くアジアの島国だと言う。当時の報道は衝撃的だったと伝えられているが、その当時を生きてた老人も十数年前に花がひらいてもういない。言い伝えられて「こんなものだった」と表されても想像出来るだけ真新しくもない。今では誰しも花を咲かせている。後は息をしているかどうかの差だった。
ある日、マルクス博士の研究所に見慣れない人間がやって来た。疲労で窶れ、窪んだ目元も暗く、一目では彼がそのアジアの島国からやって来たのだとはわらかなかった。誰もがそんなものだが彼が着ていたコートが白いせいでやけに薄汚れて見える。言葉は通じる、けれど、皆少し気味悪がった。こんな世界になって、わざわざ長い距離、何度も海を越えてこんな所にまで来た。たったひとりで。
「長い時間をかけて、想像もつかないが疲れたろう」皆が警戒する中、マルクス博士だけは彼を簡単に受け入れた。この日から研究所には未だ目的不明な男が居座った。
「今ではもう、ほとんど考えられないが、昔は国と国を行き来することなんて容易いことだったんだ。金も物資も、人員も技術もあった。今ではそのどれもが枯渇して、なによりそう出来るだけの力がない。皆花がさいて体の自由も利かなくなる。つまり、それをおしてでもここに来る意味があったんだろう。――出来れば、私も現地には行ってみたかった。いや、そうでなくとも、海のひとつでも渡ってみたかった」
マルクス博士はこの土地の、この国の名残りに残った元は一般人だった。
花によって国が崩壊し始めた時、誰よりも先に倒れてしまったのがその頃の、本物の博士や医者だった。誰よりも花に触れていたせいなのか、それが接触なのか時間なのかももうわからない。けれど彼等は急激に花をさかせ始め、倒れた彼等を中心に国そのものが倒れてしまった。
この土地は、元は大きな国だった。けれど今ではその名残で、その存在自体口伝てで誰もが知るような名前でもなくなった。
国の名残りは今、動かなくなった人工物を花に埋め尽くされ、跡形もない。
国が倒れた後も、残った者の中には花について考え、調べ続ける者がいた。マルクス博士はその何代目かの有志で、彼の前に博士と呼ばれていた人物から花を学び、やがて彼が博士と呼ばれる存在となった。
今では誰もが花をさかせていてマルクス博士が早いということもない。博士という存在なだけ、知識と行動力以外は他の人間となにもかわりはなかった。
マルクス博士には薄い黄色の花がさいている。この研究所の皆もそれぞれ、それぞれの場所に花がさいている。けれど、ひとりだけ花がない。遠くアジアの島国から来た男の体には、花がさいていなかった。
男と再会したのは、最初に顔を合わせた日から五日経った頃だった。そこで初めて男が二日眠り続け、回復に三日かかっていたことを知った。
男は自身を「ミチル」と名乗った。名前はそれだけ、名付けられ、呼ばれていた名はそれだけだった。
相変わらず、男の着ているコートは白が薄汚れていたが、疲れもとれ、幾分綺麗になったはずの表情は、けれど変化はない。知らないところで既にマルクス博士となにかを話していたのかもしれない。目的の場所に辿り着いたはずが、男の顔は冴えなかった。
ある日、男は酷く落胆した様子で佇んでいた。研究所から出て、薄汚れた白いコートを風に揺らして、歩く。やがて止まり、佇み、しゃがみ込んでしまった。
きっと、男の世界は今、目まぐるしく状況が変化している。ゆっくりと花に飲み込まれて行った世界とはまるで違って、日ごと、毎日。今日こそ遂に心が折れてしまった、そんな容貌だった。
辺りは静かで、男を追って来る者もいない。ただ、じっと、じっと動かない。
風が砂混じりのこの奇跡はまだ肌には冷たく、届く陽でも補えそうもない。
その風が、男のコートを揺らしてまくり、髪をかきあげた。するとそこに現れたのは、傷だらけになった肌の、うなじだった。
地面を流れていく砂に咳き込み、男が顔を覆って立ち上がる。蹌踉めく足が、きっと意図せずこちらに向いた。視界に捉えた男の顔が、酷く悲しげになったので知れた。
「なにか知れると思ったんだ」男は言って近寄り、やがて正面に立った。
「自分の目で見るもの以外に、内側ではなく外から見たもので、なにか知れると思ったんだ。どこかできっと、わからなかったことを解いて、見つけて、わかっている人がいるんだと」
苦悶は声にも滲み溢れ、その声を風が流して余計に不安定なものにした。
「どこか、海さえ渡ればどこか、どこかに誰かが」
まくし立てるように話した男が重く息を吐き出し、先ほどの、傷だらけのうなじに触れた。左手が触れるそこはきっと、でこぼこと皮膚が歪になっている。
「……ここに来る前まで、ずっと生えた花を切って、芽ごと引き抜いてを繰り返して来た。花なんだ、育つものがなければきっと花はひらかない。続けたんだ。でも、比較出来るものもなければどうなってるのかもわからない。芽を摘んだとして、〝その中〟がどうなってるのかわからない。だから、噂を辿ってここまで来た。研究している人間がまだいると」
言葉尻、男が息を飲んだのがわかった。吸い込む空気が喉で鳴るような。落ち着く為にしたはずのそれが、いっそう状況を悪く見させている気もした。
「……古いエコーの機械が残っていた。体の中には根が残っていて、取り除くには、体を開くくらいしかない」
「根は消えないんだ」「枯らさなければ」「どうやって」、男は頭を抱え、再びその視界には収まらなくなった。
再び顔を上げた時、男の表情は苦悶よりは自嘲めいていた。悪足掻きだとわかっている、どれにもなにも意味もないことも、そんな時間もないことも。
「自分が死ぬ理由を知らずに死ぬなんて嫌だったんだ」
言って、男は私の頭部にさく花をへし折り、ちぎれた赤味の花びらが視界の外へと散って行った。
久しく見た自分にさいた花、もう随分と長く自分の姿も見ていなかった。思えば妻の姿も、息子の姿も。あの、妻によく似合った青と紫を合わせた美しい花も、遂に息子に現れた蕾も。
もう、とうに体は死んでいるはずが絶えようとしたままなかなか途切れない意識で最後に見るのが愛する家族でもない。
誰も知らない、ここに根付いてしまった自分に、未だ意識が残っていることなど。自分自身でさえいつ、やっと死ねるのかもわからない。
背中を丸め、男は去って行った。研究所の中へは戻って行ったが、その後、この場に留まり続けるのかはわからない。
互いにもう一度顔を合わせられるのかもわからない。誰も、わからない。
(了)
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