第一幕:走る

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*  今居大輔は国内有数のタイヤメーカー『コービータイヤ』のテストドライバーである。技術系の学科を卒業していながら、学生時代には自動車部で活動していたという実績を買われ、実車試験部、つまりテストコースへの配属となって十年以上が経過している中堅社員だ。  自動車メーカーとは異なりタイヤメーカーの場合は、その製品バリエーションが豊富なことから、普通乗用車だけでなく、小型トラック、大型トラック、大型トレーラーに自動二輪。果ては農耕車両から重機、フォークリフトに至るまで、およそ航空機以外のありとあらゆる車両がテストコース内を走り回っている。  通常、タイヤは ──タイヤに限らず、あらゆる工業製品でも同じだが── その販売ルートが大きく異なることから、二種類のカテゴリーに分割されていて、自動車メーカーなどの生産者に納入するタイヤを生産財、街のタイヤショップなど一般ユーザー向けのタイヤを消費財という。大輔はその中でも、小型車用タイヤの消費財評価を担当していた。  ドライハンドリング路でコースアウトした際に、コース上にぶちまけてしまった干渉帯の砂利などを清掃した後、残りの試験メニューをやり終えてから大輔はガレージに戻って来た。車両を降りた彼は、直ぐさまリフトで車体を持ち上げ、インパクトレンチで右後輪のホイールナットを緩め始めた。  ヒュイン、ヒュイン・・・ とエアーツールが小気味良い音を立てている所へ、タイヤを転がしながら馬淵一成(まぶちかずなり)が近付いてくる。彼は、大輔が今評価中である試作タイヤの設計担当者だ。たった今、コースを走って来たばかりのタイヤを取り外し、それを馬淵に渡す大輔。代わりに受け取った、次の評価水準のタイヤを車両のハブに取り付けながら言った。  「あっ、ホイールのスポークが熱くなってるから、火傷しないように気をつけて下さいね」  「えっ、ホイールが? なんで? タイヤは温まってるけど・・・ アチチッ!」  大輔の忠告が腑に落ちない馬淵はついスポークを握ってしまい、直ぐに自分の迂闊な行動を後悔した。  「限界走行してるんでブレーキが熱くなって、その放熱でホイールも熱くなるんですよ。スポークならまだいい方で、キャリパーとかディスクに触っちゃったら『ジュッ』っていいますよ、『ジュッ』って」  そう言って笑う大輔は、設計部門の人間からすると付き合いやすい方で、中には口の悪いテストドライバーも多い。  「そんなことも知らずに、タイヤの設計してんのか?」  「車に乗らないヤツが、良いタイヤなんて造れるわけねぇだろ」  「お前さんら素人が頭で考えただけで良いタイヤが出来れば、誰も苦労はしねぇんだよ。顔洗って出直して来い」  どんな企業にも、いわゆると呼ばれて特別扱いされている人間がいて、東京大学やらやMITで博士号を取得したようなエンジニアが肝入りで開発した試作品を、一刀両断であっさりと斬り捨ててしまう様は、横から見ていてお気の毒としか言いようが無い。しかし、そういった職人たちを納得させられなければ、良い製品を作ることは出来ないし、開発品を上市することすら叶わないのだから仕方がない。  これもひとえに、自動車メーカーへの納入承認を得る際に、その最終可否判断が自動車メーカーのテストドライバーによる官能評価に委ねられているからに他ならず、必然的な流れで、タイヤメーカーにおいてもテストドライバーのが尊重されるのだ。  タイヤ業界において ──おそらく自動車メーカーにおいてもそうだろうが── テストドライバーとはまさに職人であり、そういった一癖も二癖も有る連中が集う実車試験部とは、全くもって扱い難い部署なのだ。その発言に科学的な裏付けは困難であるとの共通認識から不可侵領域とされ、時に技術畑 ──つまり研究開発部門や商品設計部門── あるいは本社機能 ──主に販売部門── にとって『目の上のたんこぶ』と成り得る存在なのだった。  「で、どうでした、今のタイヤ?」  ヒリヒリする右手を、冷たい車体に押し付けて冷やしながら馬淵が聞いた。どの試験タイヤが本命かは大輔に告げず、単なる試作ナンバー違いの水準品として、いわゆるブラインド状態での評価を依頼しているのだが、実は今走って貰ったタイヤこそが、設計部門イチ押しの試作品である。勿論、このタイヤで高評価が出ることを期待しての質問だ。  「うぅ~ん・・・ 通常領域では前期モデルと同等、もしくは若干の良化傾向ですね。センターの応答性も過不足無く、リニアリティも標準以上だと思います。ただ・・・」  大輔は渋めの顔を作って見せた。彼が評価するのは消費財ではあるが、それが一般ユーザー向けのタイヤだからと言って、判定が甘くなるわけではない。  「ただ?」  こういった官能評価結果は、追って報告書として正規に発行されるが、ドライバーの生の声を聞きたくて、設計者たちは足繁く茨城県にあるテストコースに通い、色々とインタビューをするのだ。それは、報告書の文字情報や数値化された計測データからは得ることの出来ない、微妙なニュアンスを感じ取るためであったり、或いは設計者と評価者の連携を密にし、製品開発をスムースに行うためである。  場合によっては助手席に同乗し ──いわゆる横乗りというやつだ── 試験中の車内で聞き取りを実施することも行われるが、今回のような限界走行を含む総合評価の場合、たいていの同乗者は車酔いだか何だか判らない症状で気分が悪くなってしまう。酷い時など、コース脇に車両を止めてのゲロゲロと相成って評価に支障を来すため、走行を終えた車両がガレージに戻って来るのを待つのが常なのだ。  「限界領域での走行を続けていると、突然グリップを消失する感じが有りますね。前のラップでのイメージを持ってコーナーに突っ込んでいくと同じラインをトレース出来ないんです。踏ん張りが利かなくて車体姿勢が安定しません。そこで上手く修正してやらないと、一気にスピンしそうでしたよ」  「それは許容範囲ではないというレベルですか?」  「んん~、もし僕だったら、このタイヤは買わないかな。一般ドライバーが、そこまでの限界走行をすることは普通有りませんから、商品としてはアリなのかもしれませんが・・・ 事実、飛び出して来たキツネを避け切れず、コースアウトしちゃいましたよ」  「あぁ、さっき無線連絡が入ってたやつですね?」  「えぇ、そうです。あの瞬間、そのタイヤは」と言って大輔は馬淵の足元にある、まだ熱々のタイヤを顎で指した。「路面をまるっきりグリップしてなかった印象です」  「そ、そうですか・・・」  四本のタイヤを履き替えた大輔がクラクションを「プップッ」と短く二度鳴らし、次の試作タイヤの評価に向けてバックでガレージを出た。ガレージ退出の際にクラクションを鳴らすのは、多くの人や車両が行き交うテストコースでの事故を、未然に防止する為のルールである。  そしてシフトを一速に入れ直した大輔が、再び試験コースに向かって走り去る。その遠ざかるGOLFのテールランプをガレージの中から見送りながら、馬淵はポケットからスマホを取り出した。彼は予め登録されたナンバーを呼び出すと、それを耳に当てた。  「あー、もしもし、馬淵です。お疲れ様です。今、お電話大丈夫ですか?」  『・・・・ ・・・ ・・・・』  「はい、そうです。例のタイヤの評価が今、終わりました。ドライバーへのインタビューベースの速報ですが・・・」  馬淵が電話を掛けながら足元を見下ろすと、うっすらと焼けただれた様な、異様な表情を見せるタイヤが目に入った。
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