第一幕:走る

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2  横1m、高さ50cm、奥行きも同じく50cm程のアルミ製の箱の中から、しきりと機械音が響いていた。東京都立川市の郊外にある研究施設、『コービータイヤ東京技術開発研究所』の西館六階にある部屋の一角に、その試験機が据え付けられていた。  その装置から延びるケーブル類のうち一本は壁のコンセントに差され、残りは端子台と呼ばれる弁当箱ほどの箱に導かれている。そしてその数本のケーブルを束ねる弁当箱からは、パソコンをネットワークに有線接続する際の水色のLANケーブルが一本だけ生え、そのまま光重(みつしげ)の前にあるLenovoのノートパソコンへと延びていた。  彼女は光重真紀。コービータイヤの材料研究部、機能性材料研究課に所属し、天然ゴムに代わる新たな素材開発に携わっている。大学では有機化学を専攻し、数ある化学メーカーの中からコービータイヤを選んで就職を果たした、根っからの化学屋さんである。  そもそもコービータイヤとは、神戸ゴム工業株式会社がその前身である。当時、世界的なゴム需要の波に乗って事業を拡大していた創業者は、モータリゼーションの到来を敏感に察知し、「コーベタイヤ」なるブランドを立ち上げ、タイヤの生産に乗り出したのが始まりとされる。  当初は国内消費向けのみの生産を行っていたものの、日本政府の外貨獲得政策に歩調を合わせる形で海外にも進出。以降、日本を代表するグローバル企業の一つと謳われる礎を築いたのだった。  1970年代初頭、事業規模の拡大に伴い神戸ゴム工業からタイヤ事業だけが独立し、現在の会社組織となったが、それを機に社名には「コービータイヤ」を採用。それは、コーベタイヤの英語読み(KOBEはコービーと読まれることが多かった)から来たものであることは有名な逸話である。  その後も順調な成長を遂げたコービータイヤは、今ではかつての親会社である神戸ゴム工業の三十倍以上の事業規模を誇っている。  世界中にネットワークを形成するグローバル企業であるコービータイヤは世界各国に生産拠点を構え、特に北米、欧州、東南アジアには、それぞれの地域の中核的な位置づけとして、研究施設や販売基幹拠点、及びテストコースを持つ。しかしそれらの中においても、この立川の研究所こそが会社の将来を担う技術開発の総本山であり最先端である。  そこではタイヤに関わる様々な基礎研究、応用開発などが日夜行われていて、その対象領域はゴムという素材面からの化学的研究に留まらない。東南アジアで栽培されているゴム農園からの安定供給を目指す、バイオテクノロジー的なアプローチに加え、タイヤ単体としてだけでなく、車両の一部を成す構造体としての力学解析、或いは自動車社会の将来像を見据えた、より革新的なビジネスモデルの模索など多岐にわたる。  また、研究所の隣に併設された試作専用工場では、先進技術を盛り込んだ試作タイヤが日々生産され、同じく併設される室内試験所において性能評価されていた。試験所の各種試験装置は、晴れた日のドライ路面、雨の日のウエット路面、積雪・圧雪路面、完全凍結した氷盤路面などを再現しつつ、24時間体制で製品評価を行っている。  それだけの規模の施設が有れば従業員の数も膨大だ。従業員の為の社宅は鉄骨構造の五階建てアパートが十八棟、六階建て独身寮が一棟。従業員の子供たちが通う保育園も完備し、その道路を挟んだ向かいには児童公園がある。  広大な面積の多目的グラウンド ──夏には近隣住民にも開放される、納涼祭の会場にもなる── に付随するのは、野球場1面とテニスコート4面。温水プールを完備するスポーツジムは、従業員の家族であれば破格の値段で入会でき、体育館は予約さえすれば無料で使用が可能だ。  その広大な敷地から国道を挟んだ向かい側には、社員優先の宿泊施設とレストラン。日用品や生鮮食品を販売するスーパーマーケットに、果ては専用病院までが立ち並び、その地区はさながらコービータイヤの城下町の様相である。  そんな研究所に立ち並ぶビル群の一つにおいて、彼女が今評価しているのは今度の新商品に搭載予定の新規材料で、タイヤと路面が接する部分、いわゆるトレッドゴム用に開発されたものだ。その試験片を装置に取り付け、アスファルト道路を模したモデル路面に擦り付けて、接触面に発生する摩擦係数を計測しているのだ。  その際の付与荷重や滑り速度、或いは水の有無によって摩擦係数は大きく変化するわけだが、全ての開発品をタイヤとして試作し、室内試験所あるいはテストコースで評価するのには時間もコストもかかり過ぎるため、このようなラボ試験機で基礎データを収集することが一般的に行われている。こうして得られる各種データが、市場でのタイヤ性能を予測する際の重要な手掛かりとなるのだ。  今、試験機に装着されている試験片は、既に一連のラボ評価を完了していて、好成績を収めたためにタイヤへの試作に移行している。確かその試作タイヤは、既に茨城にあるテストコースに送付されていて、実車試験部が最終評価をしているはずだった。  しかし真紀が、そういったラボ評価段階を過ぎたサンプルを再評価しているのには訳が有った。それは、試験終了後のゴムが異様に熱かったからだ。  通常、この摩擦係数測定は繰り返し計測も含めて、10分程度で完了する試験である。しかし、このサンプルを使った試験の際、彼女は試験手順を間違えて20分ほども計測を続けてしまったのだった。得られた試験データとしては妥当な値を示していたため、彼女はその結果を正規のデータとして扱ったわけだが、試験片を取り外す際に、ゴムの異常な温度上昇に気付いていたのだ。  ゴムに限らず、あらゆる有機材料はその温度によって性状が大きく変化する。巷に溢れるプラスチック、いわゆる合成樹脂製品を見れば、その特徴は素人でも判るだろう。適正な使用温度範囲を超えた合成樹脂は途端にその強度が損なわれ、ドロドロに溶解してしまうのを目にしたことが有る人も多いはずだ。更に温度を上げれば燃焼域に到達し、最終的には炭になってしまう。  実はゴム材料も、基本的にはプラスチックと同様な傾向を持っており、その機械的特性は使用温度に大きく依存する。レーシング用タイヤなどで、ラップを重ねてタイヤを温めてからタイムアタックが行われるのは、正にこの特性を表したものだ。  従い、異常過ぎる温度の上昇は材料強度の低下を示唆し、タイヤ性能を大きく損なう可能性が有ると言える。  アスファルトにゴムの試験片を擦る際に必要とされる水平方向の力を、その試験片に掛かっている垂直荷重で除したものが摩擦係数μ(ミュー)と言われる特性値で、その最大値を最大摩擦係数という。一般に試験片が滑り出す直前に最大値を迎え、それを最大静止摩擦係数と呼ぶことは高校の物理の教科書に載っているはずだ。  アルミの箱の中で試験片が往復運動を繰り返す度に、接触面に発生している力をセンサーが検出し、そのアナログ電圧情報は端子台の中で即座に32bit信号に置き換わる。それがLANケーブルを経由してLenovoに伝達され、予めインストールされているLabVIEW ──グラフィカルプログラム言語の一種── が各種の演算処理していた。そうして摩擦係数に換算された値をディスプレイ上のグラフにリアルタイムで表示させつつ、数値データをストレージに記録するというのが、この試験装置の概要だ。  勿論、試験片を移動させる際のステッピングモーターの制御も、先のLabVIEWによって書かれたプログラムが一手に引き受けていて、その操作はパソコンのキーボードやマウスによって真紀自身が行っていた。  更に彼女は試験片に熱電対 ──一種の温度センサー── を挿入し、摩擦係数測定中のサンプル温度をリアルタイムで監視するシステムを後付けしていた。それはOMRONのハンディ温度計の一種で、Lenovoの横に置かれた表示器が、刻々と変化する試験片温度を表示するものだ。  このような後付けの装置構成では温度データを記録することは出来ないが、目視でモニターするだけでも充分だろう。本来であれば、LabVIEWのプログラムを書き換えて、その温度データも一緒に記録できるようにするべきなのだが、如何せん化学屋の彼女にはプログラミングの素養が無い。別の部署にいるプログラムに長けた人に頼めば、その程度の改良はチャッチャとやってくれるはずだったが、急遽、思い立ってこの試験を始めた真紀には、そこまで周到な準備をするつもりも時間も無かったのだった。
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