第一幕:走る

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*  計測を繰り返すに従い、一旦は上昇した摩擦係数は緩やかな低下傾向を示し始めていた。一方、試験片の温度が微増ながら右肩上がりなのは、摩擦熱に加え、材料に繰り返し加えられる変形に伴う内部発熱によるものである。温度が上がればゴムが柔らかくなるので、ある適正域を超えるとゴムブロックとしての踏ん張りが利かなくなってきて、徐々に摩擦係数が低下を始めるのだ。  10分経過。摩擦係数、試験片温度共に通常の範疇である。全く問題が無いどころか、むしろ従来のゴム材料よりも高い摩擦係数を示しており、タイヤにした際の性能向上が期待できそうだ。  20分が過ぎた。摩擦係数は相変わらず好成績を収めているが、それまでとは明らかに異なる温度上昇のトレンドが現れ始めた。緩やかな上昇傾向から決別し、急勾配に移行しつつあるようだ。  そして試験開始から23分に到達した時、それが急激に始まった。固唾を飲む真紀が見つめるディスプレイ上で、彼女が入社してから一度も見たことも無い挙動が現れ始めたのだ。  試験片温度は急勾配と言うよりも、むしろ指数関数的に上昇を開始し、それに応じて摩擦係数は一気にゼロ付近にまで低下した。しかし、その異常傾向は直ぐに終わりを迎え、発熱した試験片の温度はゆくっりと降下を開始する。しかし温度が下がり始めてもなお、摩擦係数が復活の兆しを見せることは無く、このゴム片がもう何の力も発現させられないことが伺えた。  暫くして試験機から嫌な機械音が聞こえ始める。それはステッピングモーターの上げる滑らかな唸り音とは異なり、金属と金属が擦れ合うような、明らかに装置の異常を示す音だ。彼女は慌てて試験機の非常停止ボタンを押し、アルミの箱のカバーを開けた。  彼女がそこに見たものは、完全に溶解したゴム片がネバネバに半液状化し、アスファルト上に黒い筋となって引き延ばされた痕だった。ゴムが焼けた際の異臭に加え、微かな発煙も認められる。試験片を保持するアルミ製のステー部分には、ゴムと呼べる物はもう殆ど残っておらず、そこに埋め込んでいたはずの熱電対は引き千切れてしまっていた。  過剰な高温に到達した試験片は、極端に軟化することによって自由に変形できてしてしまうため、内部発熱が抑えられて一旦は上昇した温度の低下を引き起こしたのだろう。そのような材料では力を発生させることも、伝達することも出来ない。従って、摩擦係数として検出される値は、アルミステーがネバネバの上を滑る際の抵抗しか加味されず、ほぼゼロに近付いたと見るべきだ。  そんなネバネバも、いずれは薄く引き伸ばされ、遂にはアルミステーとアスファルトの直接的な接触が始まる。そして、むき出しのアルミ部分でアスファルトを擦った為に発生した異音が、彼女の耳に届いていたことが解かった。  真紀はその試験機内の惨状を茫然と見つめた。そして心の中にボンヤリと浮かんだ言葉に、自らがギョッとする。  この材料には重大な欠陥がある。  その言葉の重さを持て余し、茫然自失となっていたところに聞こえた言葉が、彼女を現実へと引き戻した。  「光重さん、終わりました? その試験機、次に使っても良いですか?」  同じ課に所属する、二年後輩の本山(もとやま)の声だった。彼女は振り返り、慌てて笑顔を繕う。  「えっ? あ、うん。もう終わった。五分ほど待ってくれる? 直ぐに片付けるから。それから路面を痛めちゃったの。その交換、手伝ってくれるかな?」  アスファルト舗装は、たとえモデル路面であったとしてもそれなりの重量がある。それは正に道路から切り出したピースに相当し、原油由来成分 ──正式には、これをアスファルトという── をバインダーとし、砕石や砂などの骨材を混錬して固めた物だからだ。重さのイメージとしては、コンクリートブロックと変わらないだろう。それを交換するには、女性一人ではやはり無理が有る。本山は快く承諾した。  「あ、いいですよ。判りました」  そう言いながら、彼女の肩越しに試験機の中を覗き込んだ彼は目を丸くした。  「あちゃ~。随分と派手にやりましたね。これじゃ、スリップ痕というよりペンキ塗りたくったみたいじゃないですか?」  「えへへ。ちょっとやり過ぎて溶かしちゃった。課長には内緒にしておいてね」  そう言ってペロリと舌を出しながら、試験片を取り外そうとサンプルステーを掴んだ彼女が思わず叫ぶ。  「キャッ!」  その鋭い声に、彼女の背後で新しい路面の準備を始めていた本山が驚いて顔を上げた。  「どうかしましたか? 大丈夫ですか、光重さん?」  「うん、大丈夫、大丈夫。ステーがまだ熱かったみたい」  機械から異音が発生し始めたことで気が動転し、監視していた温度のことを完全に忘れていた。彼女はジンジンと疼く手に軍手を嵌めながら思った。  最後に見た時は何℃だったかしら?  面倒臭がらずに、後付けの温度監視データも一緒に、Lenovoに集録できるようにすれば良かったと、彼女は後悔していた。
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