ありがとうの門番

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 私はショーケースを眺めていた。 胸ほどの高さがあるガラスケースにはレースが敷かれ、その上にたくさんの雑多なものたちが並んでいる。  小人が使うようなスプーンに、刺繍が施された布定規、カラフルなアメピンに、ふちの欠けたティーカップ……。  そして私の視線の先には、小さな箱があった。 アンティーク風の木箱には繊細な花びらが彫られている。花びらは赤く、茎は緑に塗り分けられ、私にはそれがカーネーションだとわかった。箱の四本の猫足は瀟洒で堂々として、そのニスの輝きが私の心を柔らかく襲った。  だが木箱の装丁もさることながら、私の目を引き付けたのはその中身だった。 真紅の布の上で、一枚の細長いカードが鎮座している。角の丸くなったそれは、どう見ても新品ではない。箱と同様に、アンティークなのだろう。 「何かお探しでしたら……」 はっと顔をあげると、隣には見知らぬ老婦人が立っていた。 丸い眼鏡は鼻にちょこんと乗っているだけで、使う気がないように見えた。黒縁はところどころ剥げており、ネジが曲がっているのか右に傾いている。実を言うと私には、それすらも商品に見えたぐらいである。  なぜならその眼鏡にも先ほどの箱の中身同様、小さなカードがつけられているからだ。値札カードのようにも見える。よく目を凝らすと、「目が悪い」と書かれていた。 「あ、いえ……」 お構いなく、と続けると、老婦人はすっと体を引いた。 「あぁこれはまぁかわいらしいお嬢さんだこと」 私の全身を爪先から頭まで見回して、しきりに頷いている。私の方も、初めて彼女の全身を見ることができた。丈の長いエプロンの胸元には、「店長」と刺繍がある。 「あ、あの、じつはこれが欲しいんですけど……」 私は思い切ってその木箱を指さした。指が震えている。  白髪の彼女は驚いたように私を見て、曲がった眼鏡を指で触った。レンズ越しに目が合う。 「……それは呪われた文字です」 先ほどとは打って変わって、軽蔑するような響きだった。 自分がごくりと唾をのむ、その音がそう広くはない店内に響いて、私は眉根をひそめた。 「……わかっています」 「それは太古の人々が神様のためにデザインした言葉です。我々が今使っている言葉とはまた別物」 そっと足を忍ばせて、その箱を体でかばうように私とショーケースの間に身を滑り込ませた。 「いいですか。この箱を持つものは、清く正しく、そして自由でなくてはならない」 小柄ながらも迫力のある彼女は幼子を叱責するかのようだった。 泣きそうになる気持ちをぐっとこらえて、その淡いブラウンの瞳を見つめ返す。 「昔の人々は、この言葉を日常的に使用していました。ごく普通に。それはもう当たり前に。おはようとかおやすみ……そういった言葉のように扱っていました。でも、彼らは乱用しすぎたのです。本当の価値を忘れてしまった」 老女はショーケースに無造作に置かれたその箱に手を伸ばした。触れる寸前で手を引っ込める。指先のほんの僅かな衝撃や体温で壊れてしまうのを恐れているみたいだった。 「だからこうして封じ込めているのです。神秘と、尊敬の念をこめているのです。神様がお許しになった特別な言葉ですから」 部屋には小さな沈黙が訪れた。使い古された沈黙で、私は彼女が何度も客にこの話をしているのだとわかった。 「わかっています。でも私にはその言葉が必要です」 真剣な瞳を見せたつもりだ、この世で一番。自然と熱がこもって、私の言葉がじゅわっと湯気を見せてくれた。 「……そこまでおっしゃるのなら、お聞かせください」  私は彼女に、なんてことはないありきたりの話を語って聞かせた。 育ててくれた親に対する気持ち。愛する人に対する気持ち。いつもくだらない話を聞いてくれる友人に対して。飼っていた犬や、なじみの店の店員さんや、会社の同僚へ。  それから、すべての出会いを用意してくれた、神様に対して。 「私は感謝とは心で通じ合うものと教わりました。言葉を挟まずに、目を見て、手で触れて、唇を重ねて、それから表情で。でもその中で言葉の役割に、気が付いたのです」 つたない言葉は時折、波を打つようにはねるけれど、私は一生懸命につないだ。広く、深い言葉の海で揺蕩うように、丁寧に。  自分自身のその尊い感情に、私は思わず膝を折った。 老婆の皺の寄った手が髪をなでる。 「今では感謝の言葉は、極上の価値を持つようになった。それと共に、感謝の気持ちも神秘的で尊いものとなった。あなたも人間として、人間であるからこそその感情の持ち主となることができた。誇りなさい、そして、いきなさい」  頬を伝う涙に彼女の手が触れて、気が付くと老婦人の両手にあの箱が載っていた。まばゆいばかりの光が降りそそぎ、涙がその紙を覆った。  羊皮紙にシミができて、やがてそれが乾いていく。  変わり始めた色を完全に見届けてから、私は息を止めた。  海に潜り、また言葉に抱いてもらう。  感謝と死の尊厳の間で、涙だけが時空を超える。  その先にある、誰かの笑顔と、  たった五文字の言葉がみせる  鮮やかな世界よ、  「ありがとう」
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