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 近所の高校とその最寄り駅からは少しばかりルートを外れた住宅地の一角にある喫茶店ノワール。  マスターの中年男性とひとりの少女が切り盛りするその店は客足もまばらでいつも静かな雰囲気だ。 「夕刊が届いていました」  決まって毎週金曜日の夕刻に訪れる学生カップルを送り出したクラシックメイドスタイルの少女がカウンターに新聞を置いた。カウンターの中で足を組んで煙草を吹かしていた細身の中年男性がこくりと頷いて受け取る。 「おう、あんがとさん」  夕刊を渡した少女はそのまま時が止まったかのように暫しその場に佇み、口を開く。 「“審判”(ジャッジメント)、質問があります」 「その前に有夢(ゆめ)」  男は片手で、まずはその言葉の続きを遮る。 「営業時間中は符丁(コード)を使うな。店内に客が居なくてもだ」  男は億劫そうに視線を向けて紫煙を吐き出す。  彼らは二足の草鞋を履く身であり、ひとつは喫茶店の経営、もうひとつはあまり表立って言えない仕事だ。表の仕事をする場で裏の仕事を匂わせるのは極力避けなくてはならない。 「ここではマスター、おじさん、黒須(くろす)さんのどれかを使え。完璧に役割(カバー)を演じるのは仕事のうちだぞ」  少女は無感動に頷く。 「わかりました。ではマスター、続けてよろしいでしょうか」 「おう、なんだ?」 「“ありがとう”、“サンキュー”、“悪いな”、“どうも”、そして今日の“あんがとさん”ですが」 「お、おう」  また面白(おもしれ)えこと言い出したなこいつ、と思っているが口には出さない。訳あって人間社会の経験が乏しい彼女には時々ある行動だった。 「バリエーションにはどのような意味があるのか理解できません。それ以上に、夕刊を持ってくる行動は業務の一環であり謝意は不要だと考えます」  無表情に抑揚なく問う少女の言葉に男は煙草を吸い、溜息のように吐き出す。 「まずバリエーションの話だが、特に意味は無い。が、意味の無いには意味が有る」 「わかりません」  少女は即答した。男は無精髭を撫でながら明確に溜息を吐いて彼女にわかりそうな言葉を探す。 「の全くないやつを見てると人間は不安になんのさ。カンのいい奴には不審に思われる。だから自然に集団に溶け込みたいなら完璧である」 「先程は完璧に役割(カバー)を演じろと指示を受けましたが」 「そうだ、役割(カバー)は完璧に演じろ。だが演じるべき役割(カバー)は完璧な人間じゃねえんだ。違いがわかるか?」  少女は暫し黙考して頷いた。 「わかりました」  彼女が望んだ意味で理解したかどうかは正直怪しいと男は思っている。だが今の説明で本人はなにかしら腑に落ちたようなので水は差さない。 「次に、謝意ってのは潤滑油だ。潤滑油ってのは動かなくなってから差しても(おせ)え。そうならないように差すもんだ。相手のやったことが仕事でも、果たすべき義務であっても、礼を言って悪いこたぁなにもねえ。だから俺はお前のちょっとした行動にも礼を言うし、お前もそうあるべきだと思ってる。理解できたか?」 「わかりました」  少女は素直だった。男は頷く。 「よし。それじゃあ有夢、今日はもう〆てくれ」  男は煙草を揉み消して立ち上がる。 「めんどくせえがこの後の仕事がある」
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