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青年、山瀬がトイレに駆け込むのを確認して、男は深く息を吸い込むと静かに広く紫煙を吐き出して宙空をじっと見つめる。
「戻ってるな“悪魔”。表はどうだ?」
空気から溶け出すように現れたのは、短い黒髪の無表情な少女。今はメイド姿ではなく男と揃いの革ジャンに革手袋、デニムにスニーカーという活動的な出で立ちだが、男のそれと違いどれも真新しさを感じさせる。
「黒服の一団はこの地区を離れつつあります。ただ、ターゲットを見失っているにしては移動に迷いがありません。不自然ではないでしょうか」
「なにか意図を感じるな。誘導されてんのか?とはいえ山瀬のボンボンは孤立無援のはず。また別勢力が介入してくるとなると…ふむ」
手に余るな、と考えつつ男は少女をみやる。
この仕事とはあまり関係ないが、山瀬の態度を見て彼女にしようと思った話があるのを思い出した。
「そういや夕方の話の続きなんだがな」
「はい」
「ありがとうってのは漢字でどう書くか知ってるか?」
「いえ、知りません」
「有るに難しいと書いて有り難うだ」
少女は黙って小首を傾げる。
「有り難いって思うような時にな、なぜそれが難しさを越えてそこに有るのか考える習慣を付けておけ。いつか役に立つ」
少女は思案するように数秒沈黙してから口を開く。
「なぜそうなったのか常に理由を推測せよ、という指示でしょうか」
男は頷いて奥のトイレを指差す。
「そうだ。窮地に突然降って湧いた幸運を些かの疑いも無く享受するようなボンクラにはなるな」
彼は機転を利かせて男を懐柔したつもりだが、実際はそのように誘導された結果に過ぎない。自ら代価を提案したことで、彼は男の協力を有り難いものから自力で獲得したものへと認識を改めてしまった。
それは協力に疑念を抱かれないよう男が仕掛けた心理的な罠だ。この男、“審判”は“悪魔”と共に黒服とは別の勢力から山瀬の身柄確保を依頼された、いわば敵のひとりだった。
「有り難い時それがお人よしからの無償の親切や偶然や幸運って場合も当然ある。だが理由を考える癖を付けておけばつまらんミスで足元掬われる心配もちったあ減るってもんだ」
「わかりました」
男の言わんとするところが正直彼女にはよくわからなかった。けれどもそれが命令であり任務の役に立つと男が言うのならば従わない理由は無い。
「それじゃ引き続き手筈通りに。通信機は入れっぱなしにしておくからイレギュラーがあった場合はお前が単独で判断しろ。三原則は覚えてるな?」
「ひとつ、自分の身を最優先で守る。ふたつ、前項に抵触しない限り殺傷を禁じる。みっつ、前二項を順守できる限り任務を遂行せよ」
「そうだ。順番を間違えるなよ」
「了解しています」
少女はまた空気に溶けるように姿を消した。
「しています、か」
まあ確かに俺の指示を忘れたこと一度も無えよなあと、男は苦笑しながら紫煙をくゆらせる。
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