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「私が私として『完全なもの』になるためには、この男の血のみを切り離せばいいのだ」
「出来るのですか?ですが、混じり合っていて無理と…」
「…切り離すという事は…それはすなわち、この男の自我が完全に消滅する事を意味する」
「…ッ!」
そうだ、すでに混じり合い溶け合っているものを、完全に分ける事など無理なのだ。
今、私が、この男の意識下に存在できているのは、この男がそうするように魔力を練ってるだけに過ぎない。いわば、残滓に過ぎなかった私を、この男が私の自我を増幅し形付けているだけだ。
その私を、完全な形にするには、膨大な魔力と依代が必要なのだ。
「俺は別にいいよ」
静かな声だった。
「もともと、ここにはいないはずだったし。やりたい事は済んだし。…ま、失敗しちゃったけどさ。ワンチャンは無理そうだから、後はどうでもいいんだわ~」
男がにっこり笑う。隣でラクドルが息を呑んだのが分かった。そして、その体を纏う魔力が揺らめき、動揺と後悔、不安と罪悪感が入り混じっているのを感じる。
そっと、細く白い手に触れると、驚いたように私を見上げた。触れる手に力を入れ握り込めば、ラクドルも同じ強さで握り返してきた。
男を見ると、澄んだ漆黒の瞳には、やはり迷いも恐れもなかった。
繋がっていたからか、この男が、自分を取り戻そうと足掻いていた事を知っている。自分が消えてしまう事も覚悟し、それを望み、それでも届かなかった事も…。
そして今、私を残し自分が消える事も受け入れている。
その強さに、思いに、私はただ恥じいる事しか出来ずにいた。
愛しいラクドルの苦しみ。
私を慕ってくれた、魔族達の犠牲。
全てを押し付けられた男。
それは、全て私の独善が招いた事なのだ。
「そんな資格は、私にはない」
「……」
ラクドルが強く目を瞑った。男は、相変わらず笑っている。私は…。
「私がした事は、許される事ではない。結局、私がした事は、ここにいる者達も、ここにいない者達も…苦しめただけに過ぎないのだ。
そんな私が、また、お前を犠牲にして存在を得るなど…許される事ではないだろう」
「くはっ!殊勝なこったな。どうしたよ?マジで反省してるわけ?」
「…本当の事だ。私の独善がいくつもの苦しみを生み出し、今も続いている。
それは、完全に消滅する事を恐れ、お前に血を受け継がせたのに、自我を残そうとした私の浅ましさが引き起こした事が原因だ。それが全ての苦しみの始まりで、私が存在する以上はさらに続いていくだろう。だから私は……」
「アンタ、まだわかってねーのな?ほんと、どんだけヘタレなわけよ?くはっ、くはははっ」
「……っ!」
男が空を仰ぐように高らかに笑う。圧倒されるほどの膨大な魔力が、部屋の中に溢れていく。
「…ッう…」
その圧に、ラクドルが溜まらずに跪く。その体が小刻みに震えていた。慌てて抱きしめ自分達の周りに膜を張り、男の圧から守ると、ラクドルの震えが少しずつ小さくなっていった。
「今更、責任取って消えてどうなんのよ?それこそ、今までと同じ、逃げてる事だっつーのが分かんねぇの?」
男が、バルコニーからゆっくり部屋に入ってくる。
私より、小柄な体がやけに大きく感じられた。それは、この男の存在感の表れかもしれない。知らず、自分の体も震えていた。
元々、『人間』だったとは思えない、私以上の魔力を纏いながらも、一切、逃げも恐れもしないもの。この男以外、私の意思を継げるものなどいなかった。
だから、全てを託したのだ。
だから…もう、なんの苦しみもないはずだったのに…。
「だからぁ、その考えがすでに逃げてんだっつーの」
「…っ!」
「呆れるほどに臆病で自分勝手で…。アンタって、ほんっとーにっ、嫌な野郎だよなぁ。だっけどさぁ?なんでか、アンタが必要だって言う奴らがわんさかいるわけよ?だったら、そこは、ちゃんと返してやらにゃいかんでしょーが?今まで散々世話になってんだからさ」
「…返す……?」
「そうっ。アンタがいないと生きてけない人の為にも…。自分の為に生きるのが辛いなら、自分を慕ってくれる奴の為に…そんな奇特な奴の為に、生きていくのもアリだと思うわけよ?」
いつの間にか、私の近くまで来ていた男が私から視線を外した。その視線を追うと、私を心配そうに見つめるラクドルと目が合う。
ラクドルが私の腕を掴んだ。その腕が僅かに震えている。
「今までは自分の為だったろうけどさ、アンタは今、新しく生まれ変わったんだし…。だから、今度は大切な人の為に生きてみちゃえば~?なぁ、魔王ちゃん?」
再び男を見る。そこには、今までとは違う、まるで子供のように屈託無く笑う男がいた。
『誰かのために生きる』
ーーそんな事、考えもしなかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
バルコニーから見下ろす、魔国は何も変わっていないように見えた。日差しの強さや頬を撫でる風を感じながら、新しい肉体に流れる血を感じていた。
何もかもが、前と同じように感じられる。
「少し…休まれてはいかかですかね?」
振り向くと、膝掛けを持ったラクドルが立っていた。
その見慣れた様子は、私達のいつもの時間を再現したかのようで、まるで夢のような光景だった。
「調べてみましたら、バスルームやトイレット、ちょっとしたキッチンもありましたよ、この部屋の続きに…」
「…今の私に、食欲や睡眠は必要なのか?」
ラクドルが首を傾け考え込んだ。その仕草が、何故か幼く見えて、思わず口許が緩んでしまう。
「この部屋は『現実』だと仰っておりましたからね。もしかしたら、この部屋限定で、貴方は本当に存在しているのでしょうかね?…原理はさっっぱりなのですが…」
「…私もだ。あの男は、すでに私には届かない高みにいる。こんな事は、以前の私にも今の私にも不可能だからな」
あの男は、私に『生まれ変わった』と言っていた。
二人の血が混ざりあい一つになってる以上、私達が同時に別個人として存在する事は不可能なはずだった。
私とあの男は、二つの思考を持つ、一つのものになったはずなのだから。
「そういえば、今の魔王様から伝言を承っておりますが…」
「あの男から?…なんと?」
「…『気が向いたら、いつでも代わってやるから、連絡よろ!』…との事です……」
「……」
「……です」
「………」
「…………ですよ」
「…そうか。やはり、私には理解が出来んな。繋がっているはずなのに……」
「あっ…」
「なんだ?」
「い、いえ…」
ラクドルが躊躇っている。気のせいか、頬が少し赤いような…。
「他に、何を言われたのだ?」
自分の声が、思った以上に低く出て、自身の声に驚いてしまった。そんな私をラクドルが小さく笑った。
「魔王様が仰るには、この部屋に貴方がいる時は、繋がりを遮断しているそうですよ?だから、え~とですね…。わっ、私と…何をしていても、大丈夫だと…その……」
最後の方は、俯きながらぼそぼそと話す。既に顔は茹で上がったように赤い。堪らず笑えば、ラクドルがますます顔を赤くしながら睨んできた。
そっと、その頬に触れる。
ラクドルの瞳が潤んでいく。ラクドルの頬に置いた手に、ラクドルが重ねるように触れてくる。
「温かい。夢ではないのですね…魔王様」
「私はもう『魔王』ではないのだがな」
「では…なんとお呼びすればよろしいですかね?」
「…そうだな。…ああ、あれはどうだ?昔、お前が付けてくれた名があっただろ?」
「あ、あれはっ、貴方が戯れに『自分も名前で呼ばれてみたい』と仰ったからで…」
「そうだったな。だが、お前が考えてくれた名だ。私にとっては、それが一番相応しいように思うのだ」
「……」
「ラクドル。…呼んでくれ。お前が決めてくれた、この世にたった一つの、お前にしか呼ばせない、その名前を」
「……っ、しかし…」
「まさかとは思うが、忘れたわけではあるまいな?」
「覚えておりますよっ!忘れっぽい貴方とは違うのですからねっ」
「なら、呼んでくれ」
「………くっ」
どんなに睨まれても、その赤い顔と甘い魔力が、全てを許していると語っていて、自然と口元は緩んでいく。
「…… 様…」
それはどんなものより愛しくて、私の全てを包み込み慈しむ。
ーー私だけの大切な名前だ。
これからの私は、この『愛しき者』の為に存在していくのだ。
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