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うつ伏せに横たわる体を見下ろす。頭の先から爪先まで、寸分たがわずに作る事が出来たように思う。その黒髪に触れると、柔らかな髪が指から滑り落ちていく。後ろの跳ねた場所をそっと撫ぜて整えてやる。
染み一つない背中は綺麗な曲線を描いていた。指を這わせ、その場所を確かめていく。あるのはきめ細やかな肌だけだ。
その肌にはない、綺麗に並んだ三つの黒子を頭に思い浮かべながら、それがあった場所に軽く口付けて魔力を流していく。
少しの身動ぎの後、それの瞼が静かに開いた。
「……起きられるか?」
「はい」
声を掛ければ、それがゆっくりと起き上がり、ベッドから降りてワシと対面するように立った。
黒髪の隙間から覗く漆黒の瞳。その瞳が恐る恐るワシを見上げていた。
「どこか、違和感はないか?」
それは何度か瞬きをした後、暫くは腕や指を動かしたり脚や体を捻ったりして自分の体を確かめていたが、気が済むと再びワシの体面に立った。そして、窺うようにワシを見上げると小さく笑って頷いた。
「大丈夫です。どこにも違和感はありません」
「……そうか」
そっと頬に触れ、魔力を流す。それの体の隅々まで流し、その細胞の一つ一つを確かめる。綺麗に回る魔力に満足し、それを見れば不安そうにワシを見上げていた。
「大丈夫のようだな。魔力も綺麗に回っている」
「はい。ありがとうございます。私を綺麗に作っていただいて……」
「お前には『人間』の動向を探ってもらう。『人間』のふりをし『人間』に紛れて生活する事になる。その際、自分の事は『私』ではなく『俺』と言いなさい」
「はい。あの……わた、いえ……『俺』は、どのような『名前』で仕事をすれば良いのでしょうか?」
漆黒の瞳がワシを見つめる。コウなら絶対にしそうにない、必死な縋りつくような瞳だった。
「お前の魔族名は『サクラ』だ。だが人間名は好きにつけなさい」
「『サクラ』……分かりました。良い名をありがとうございます」
コウの容姿を模写した『サクラ』が、はにかむように微笑んだ。途端に胸が締め付けられるように痛んだ。
「あ、あの……主様。如何されましたか?」
魔力を渡したばかりだからか、『サクラ』がワシの状態に気付いて心配そうに見てくる。
こんな表情も、コウには見た事がなかった。そう思うと、ますます胸が苦しくなった。
「あ、主様っ」
「大丈夫だ。なんでもない」
「ですが、あの……。失礼します」
躊躇いがちに『サクラ』が私の顔にそっと触れてくる。見慣れた青白い指先が、ワシの目元に触れると何度か指を動かした。暫く黙ってさせていたが、その仕草の意味に気が付き驚いた。
それは、涙を拭う仕草に似ていたからだ。
すぐに自分で目元に触れてみたが、濡れている様子はなかった。そのまま視線を『サクラ』に向けると、焦ったように視線を泳がせるが、ワシの顔から指を退かそうとはしなかった。
「あ、あれ? おかしいなぁ。主様の目元が濡れているように見えたのですが……あれれ?」
「……ふっ」
困った顔をしながらも『サクラ』が何度も目元を拭ってくる。その指先が優しく触れる度、自分の内にあるものが溢れていくように感じた。
止めるためにその手に触れると『サクラ』が慌てて手を引っ込めた。そして、そのまま大事なもののように、その手を胸の前で握りしめる。
「も、申し訳ありません。つい……」
「『サクラ』。ワシの事は『じーさん』とでも呼びなさい」
「えっ? で、ですが……」
「『主』という柄ではないのでな」
「は、はいっ。分かりました。では、えーと。じ、じっ……? 『じっ……ちゃん』? で、いいでしょうか?」
何故か顔を赤らめ、汗だくになりながら『サクラ』が遠慮がちに聞いてくる。暫くその様子を見ていたが、黙ってるワシに不安になったのか、今度は泣きそうな顔でワシの顔を覗き込んできた。
その顔も、決してコウがしない表情だった。途端、笑いが込み上げてくる。
静かに笑うワシを『サクラ』が不思議そうに見ていた。それがあまりにも熱心な様子だったので、今度はワシの方が不思議に思いその顔を見つめ返していた。
「……いいだろう。だが、どうした? そんなにワシを見て……。なにか分からない事でもあったか? 『人間』に関する資料は記憶に埋め込んだはずだが……」
「あ、いえ。主さ……いえ、えーと……『じっちゃん』? の瞳があまりにも綺麗でしたので……見とれておりました。もっ、申し訳ありませんっ」
「ワシの……瞳?」
いきなりの話にワシが訝しんでいると、一度頷いた『サクラ』が続けた。
「はい。とても青くて……。えーと、確か記憶の中にあった……なんだっけ、あれは……。あっ、そうだっ! 確か『海』です『海』!
あの『海』というもののように澄んだ青さで……。とても綺麗なので、つい……すみません」
そう言うと、『サクラ』は一度深く頭を下げ、次には屈託のないほどの無邪気な笑顔でワシを見上げてきた。
それは、『太陽』のように明るい晴れやかな笑顔だった。堪らず、目を閉じる。そして、
――コウの中に在った、どこまでも広く果てのない『空』と、寄り添うように凪いだ『海』を想う。
ゆっくり目を開け、ワシを見つめる『サクラ』を見下ろす。
「やはり、お前は別物なのだな」
「……え? あ、あの? わ……お、俺はなにか間違ってしまいましたか?」
「いや、間違ってはおらぬよ」
『サクラ』が困ったようにおろおろし始める。それがまた可笑しくて、今度ははっきりとした笑い声がワシの口から出ていった。
そう、なにも間違ってはいない。
どんなに精密に模写しようとも、コウを作る事など出来はしないのだ。
――コウはこの世に、ただ一人なのだから。
だからもう、迷いはしない。
あの清々しいまでの清らかな魔力を纏い、飄々としながらも、決して誰にも本心を悟らせず、誰に頼る事も縋る事もせず、たった一人で耐え続けていく。
まるで、果てしなく続くあの『空』のように、決して掴む事など出来ない者。
『サクラコウタロウ』
――なによりも大切で、なにものにも代え難い、唯一無二のワシの『魔王』
そして、このワシに出来る事は、この命の続く限りそれを忘れずに寄り添いながら生きていく。
ただ、それだけなのだから。
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