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天意
黒木御所の庭。一点の染みのような血溜まりの中に後鳥羽上皇は横たわっていた。すでに呼吸も弱々しく、今にも息絶えそうな有り様だった。それを鳥頭人身の化物が、最期の瞬間を待つように、静かに見下ろしていた。
微かに後鳥羽上皇の口元が震えていた。死の恐怖に怯えているのかと思いきや、何事かを繰り返し言っているようだ。唇の動きをつぶさに見て、上皇の最期の言葉を知ろうとするが、あまりに微かな動きの為、読み取れない。
化物は上皇の傍らに膝をつき、ゆっくりと彼の身体を抱き起こした。そして上皇の唇に耳を寄せた。囁きよりも弱く、かすれた声は、うわ言のように、
「◯◯よ、許せ。朕が悪かったのだ」と繰り返していた。
化物が驚いたように眼を見開いた。
◯◯とは、宮内卿の本名だった。この時代、女人の本名は大抵記録に残らない。女人の本名は、その生涯が閉じれば泡のように消えて、永遠に忘れ去られるものだった。
化物は、後鳥羽上皇が自分の本当の名前を覚えていたことに、さらにその名を今際の際に口にしたことに、驚いた。
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