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「尊成よ、我が袈裟に見覚えがあるであろう」
尊成とは、後鳥羽上皇の諱(実名)である。それはこの地上において、何人であろうと口に出して呼ぶことを許されない、神聖にして不可侵な名前である。
「畏れを知らぬ不届き者、お前は何者か」怒気をはらんだ声で上皇は問うた。
それに対して声の主は「我はすでに人外の物なれば、何の畏れもありはせぬ」と嘲るように言った。
上皇はその声に女人の響きを認めて訝しんだ。
「お前は女か?」
「そのような事を聞いて何になる。男だの女だのという下らぬ事は、今の我には意味のないものだ」
しかし後鳥羽上皇は、声の主が女と分かったことで、恐怖心がやや抑えられた。この時代、怨霊の力は身分や地位の高さに比例する、と考えられていた。武家が支配する世では、女性の地位は低い。それに対して後鳥羽上皇は、自分自身をこの世で至高の存在と自負している。人外の物になったとはいえ、元が人間の女だったのなら、所詮は自分の命を脅かす事など出来るはずがない、と値踏みしたのだ。
「女人ごときに怨まれる覚えはない。去れ」と上皇は命じた。
すると、暗闇の中で影が身を捩るように蠢いたかと思うと、突然ヌッと上皇の目前に迫ってきた。
上皇はその時、声の主の顔を初めて見た。
無機質な漆黒の眼、鋭い嘴。それは人間の顔ではなく、猛禽類のそれだった。
「浅はかな」嘴が動いて人間の言葉を発した。その瞬間、後鳥羽上皇の身体が突風に煽られたように、宙に舞った。
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