欠字

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欠字

 上皇の傍らに立った化物は、すぐに襲っては来なかった。まず次のように問い掛けてきた。 「それに覚えがあるであろう」  上皇はうなずいた。  確かにその袈裟には見覚えがあった。それは彼にとって忘れ難い物でもあった。  数えれば十八年前。それは後鳥羽上皇が己れの人生で、最も敬愛の念を抱いた人物に贈った物だった。  では、この化物の正体は……。  いや違う。そうではない。  上皇は脳裏に浮かんだ名前をすぐに打ち消した。袈裟を贈った相手は、釈阿(藤原俊成)。和歌作りに目覚めた若かりし頃、彼は師にも等しい存在だった。袈裟は、その釈阿が九十歳を迎えた時に、長寿を祝って特別に誂えさせたものだ。  釈阿から怨まれるなんて考えられない。彼に対する時は、常に親愛と尊敬の念を欠くことはなかったし、歌才に恵まれた彼の息子や娘を取り立てたのも自分である。思い返しても、感謝こそされ、怨みを買うような覚えは何一つ思い当たらない。  そもそもこの化物は……。  上皇は、袈裟が剥がれて一糸纏わぬ化物の身体に視線を這わせた。月明かりにぼんやりと浮かぶその姿は、頭こそ鳥の(かたち)だが、肢体はまるで若い女人のようだった。  釈阿では、あり得ぬ。
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