*ノヴァ急報

1/1
74人が本棚に入れています
本棚に追加
/121ページ

*ノヴァ急報

 真冬にしては暖かい。と感じるその男はここまで走ってきたからだった。  脱いだパーカーで黒く光る顔と毛の無い頭の噴き出す汗を拭った。濡れた腋を気にして、太い首を曲げ、顔の中心の大きく広がる鼻孔で麻薬犬さながら鳴らし嗅いだ。大きく深呼吸する。吐く息は白くなるが寒くない。荒がる息が止まらない。また深く息を吸う。そして息を吐く。嘔吐しそうに何度もえずく。 「除隊してから運動不足だが、これくらいで息が上がるなんて」  そうではなかった。この心臓の早鐘は我が子に初めて対面する緊張だった。  彼の見上げるレンガ作りの古いビルのある裏通りは、治安が悪い事で有名だった。月夜で明るいとはいえ、時刻は真夜中である。しかし、はちきれそうなTシャツから、汗まみれの濡れ光っている太い両腕を突き出し、大きく肩を上下させ、緊張か殺気かわからないほど蒸気を上げる上機嫌な筋骨隆々な巨躯に迂闊に近付くほど、この界隈の犯罪者も暇ではない。  ここは彼が育った街だった。このレンガのビルは彼の産まれた場所だった。オンボロビルの非常階段をイッキに駆け上がる。けたたましい金属の蹴撃音が町中に響き渡る。近所の野良犬が一斉に遠吠えした。  文句言う看護婦を尻目に部屋の前に立つ。ドアの向こうからの妻の低い呻き声と教わった通りの呼吸法がアブストラクトに聴こえてくる。  彼は落ち着くために肺の中の空気を全部吐いた。左手に力が入らない。ドアノブがすべって回らない。新米ビックダディーは白い掌にもたっぷり汗をかいていた。  ドアを開け、部屋の中を見渡すと清潔感ある白いタイルが目に飛び込んでくる。 「ダニー、ダニー!」  彼を呼ぶ声が古い肉屋の様な分娩室のタイルの壁にエコーする。 「ハニー……オレはここにいるよ」  彼女の右手を大きな黒い両手と安心感が包む。  長い時間が過ぎた。ダニーを握りかえす強い力がマックスからエンプティーへ。ダニーは確かに元気な産声を聞いた。目が熱い、その熱さが頬に伝う。神と彼女に感謝した……ついでに助産婦にも。   今、両親と対面すべく天に掲げられた小さな赤い命。 「この子は、あんたの生まれた時にそっくりだよ」  そう言って、臨月の妊婦よりでかい腹回りを持った、黒い肌の経験豊かなグランマ助産婦が、手の中の命と母親を繋ぐ臍の緒を切ろうとした。  分娩室の電灯が落ちて何も見えない漆黒になった。闇の中で臍の緒が導火線のように燃えていた。その炎は徐々に赤子に迫り、点火した。  赤い命が微かに光る。徐々に光が増す。光のシルエットの小さな命の姿が虚空に浮かび上がる。鮮明に。光が激しさを増す。遂に激烈な光が部屋を白く変える。  照らし出される佇む大男と、横たわる女と、手を掲げる女の三つの黒い影。全ての色彩を無にしてしまう限界を越えた輝きの閃光に飲み込まれてゆく。光の眩しさが彼らの視力を奪う。何も見えない。  その瞬間、眩しさの中心の、赤い光の命が爆発した。  新生児は大きく破裂した。  小さな人間の姿から、身体部位を撒き散らすシルエットを壁に投影しながら空中分解した。頭部が、四肢が、器官が、臓器が炸裂する影絵は色を失いながら個々の肉片へ変化する。肉塊は、細切れ肉から、粗挽きの挽肉を経過して飛び散った。細分化は止まらない。分子、原子、粒子へと。消え去るごとく拡散した。後に光りを残して跡形もなく消滅してしまった。粉々に弾け飛ぶ刹那の幻を見せた。  小さな赤い命を襲った爆発は、さながら星の最後の輝き、超新星の爆発を思わせた。  新生児が超新星へ。重力が崩壊する。    光は母親の胎内に戻るかのように黒い穴の中に収束してゆく。やがて分娩室は色を取り戻し始めた。ダニーも視力を取り戻した。壁面の白いタイルが一つ二つ浮かび上がり意味不在のメッセージの如く視界を刺す。そしてすべての色を取り戻した。元のままの分娩室へ……何も変わらない。掲げた手の中に新しい命の痕跡が無いのを除けば。    泣き声が耳から離れない。確かに聞いた元気な泣き声が。
/121ページ

最初のコメントを投稿しよう!