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*ネガティヴ・クリープ
松明を持った巨大な手が降ってくる。
「またこの夢かよ。いい加減にしてくれよ」
十六年前の悲劇にうんざりしながら目覚めの顔を拭おうとして、男は右手首の先が無いことを思い出す。代わりに、憎しみ(HATE)の四文字が刻んである左手で頭を掻く。もつれた髪の中で寝ていた甲虫が飛び立ち、男の頭の周りをゆらゆらぐるぐる巡る。
世界を照らす自由の炎が己を不孝にしたことを恨みながら、(むかしイングランドと呼ばれていた国製の光輪具である)甲虫が円環の波を作り出すのを感じる。光の加減で水色に見えるそれはシャンプーハットと呼ばれていた遺物に似ていた。
漂うサーフィンビートルは早速、脳内に伝心してきた。
「↓「まだかカトウ」↓「まだあの子は見つからないのか」↓」と、声は急かす。
「今から行くつもりだよ、毎度毎度ベタベタうるせえなファッキンアメーバたちが、いい加減にしてくれよ……なんだかなあ」
男の悪態を波の上の甲虫は「↑「申し訳ありません」↑「現在目的地の周辺に到着しました」↑「これより速やかに確保に移ります」↑」と、先方へ異訳電信した。
アメーバたちが自分をカトウと呼ぶのは過去名の加藤のことではなく下等の意であることは彼は知っている。加藤に限らずフィジカルな肉体のある人間はアメーバやスライムやブロブにとっては下等生物以下の何者でもない。だったら何で最近になって生身の体を欲しがるのかが解せない。
「まあアメーバ姿のままじゃオナニーもセックスも出来ないもんな」と、考える。
彼の思考をサーフィンビートルは先方に伝えない。そんなことが奴等に知られたら加藤の抹殺命令を無理強いされてしまう。
「殺せるもんなら殺してみやがれ」
不死人加藤は『真なる死』を欲していたが、それは幾ら待ってもやって来ない。その望み知らぬ甲虫はあくまでもユーザーの不利になることはしない従順な下僕に徹してくれている。提供者のアメーバには申し訳ないが加藤の失くした右手にかかればそれ位の改造作は容易かった。
男は、その右手無くして小娘の捜査をしなくてはいけないことに途方に暮れる。尚且つ行く先は松明が降った怨念の生まれ故郷だ。
パジャマシャツの上からモヘアカーディガンとランチコートを羽織り、まるで自分の肉体を模したような継ぎ接ぎだらけのジーンズに脚を通す。その格好で借宿にしていた廃病院を出る。まるで抜け出した入院患者のような歩みで。
無限大∞の形を模した遺物のサングラスをかけて凶暴な日差しを遮る。
光は熱いのに澄んだ空気は絶望的に冷たい。
「いい加減にしてくれよ」
と、誰も聞いていない空に悪態を吐き、ネガティヴが歩み寄る鈍足より少しだけ早いスピードで目的地を目指す為に、今や全く価値のない嘶く馬のエンブレムの高級車の残骸に乗り込んだ。
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