*溺れた巨人

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*溺れた巨人

 遡ること五十数年前、メキシコ湾岸に観測史上最大の鯨が打ち上げられた。発見された時には既に腐敗が始まっていた。  しばらくは噂を聞きつけた好き者たちが物見遊山的に集まっていたが、突然一帯が軍によって封鎖され、近隣住人や接触者の検疫が始まった。 「ありゃあ鯨じゃねえぞ、鯨の皮を被った巨人だった。破れた背中から長い腕が飛び出していたし、デカい口の中から顔が見えたんだぜ。ありゃあ、海の女神に間違いねえ」  取材にそう証言していた現地の老人は何故か姿を消し、マスコミには情報規制の圧力が掛かった。  戒厳令さながらの緊張感が小さな漁師町を支配した。  確かに鯨の形状の外殻は腐敗していたが、それを着ぐるみと見做した場合の内部の巨大生物には生存反応があった。  その後、捕獲回収された未確認生物はアメリカ軍の研究機関に移送された時点で死亡した。それ以降の公的資料は残っておらず、極秘情報を観覧出来るのは限られた数人のみだった。  通称『セイレーン』とネーミングされた研究対象の巨人は美しい女神のそのものの容貌を持っていたが、そもそも彼女=彼には性別が無かった。雌雄同体とは根本的に異なり性別という概念が当て嵌まらず、器官生殖行為を伴わず子孫繁栄出来る生命体であり、環境に適応して表層の外殻を擬態することが出来るのではと仮説が立てられた。観測史上最大の鯨に擬態していたのは地球重力下では巨躯の自重で立ち上がることが困難なので海中生活する為ではないかと推測された。  発見時に硬化した鯨形状の外殻の背中が大きく裂けていたのはサナギとして脱ぎ捨て羽化しようとしていた可能性がある。  果たしてセイレーンの人間に似た見目は擬態なのか本来の姿なのか? 研究者の間で論争が起きた。  結論として擬態説に落ち着いた。鯨形態で浜に打ち上げられた際に接触したと思われる第一発見者の地元女性と容姿が酷似しており、さらに背中から生えようとしていた翼の構造や羽毛の形状は、外殻の腐肉を啄みに集まっていた海鳥の特徴があったからだ。  外見的特徴に限らず筋組織や骨格、脳や内臓まで人体組織と共通していたことから人類と同じ祖を持つ巨人であるとの反対派の意見も根強かった。  肉体は活動停止していたが、脳波は計測され続け、その生命体の特殊なコミュニケーション能力や知識の共有分配法が別班の研究対象になった。一説によると後々のWWW(ワールドワイドウェブ)構想の発端に繋がっているとも言われているが、その点を明記した資料は紛失していた。    そして脳波があっても死亡認定された巨人の躯は仮説検証の為に解剖されることになった。
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