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この車が目的地に着いた時、もう私達は会うことはないだろう。だから少しだけ、この男の顔を見ていたかった。この願いは叶わなくても構わない。
少しの間が開いた。あなたのその唇からどんな言葉が届いてもいい。少しだけその目を見ていられる理由が欲しかった。
私は密かに息を飲んで、男の言葉を待った。
私の言葉で一瞬戸惑った男は、棘の取れた柔らかな表情をする。
男の甘い表情が、愚かな期待を心の中に植え付けない様に私は目を逸らした。
男は声を上げて笑い、私の言葉を受け止めて「いいよ」と答えた。
険しい表情が時折パッと緩む。タバコを持つ指先が絵に描いたように綺麗で、許されるのならずっと見ていたいと思った。
どんな風に女性を抱くのだろうか。どれだけ乱暴なのだろうか。どんな言葉で罵られるのだろうか。優しくなくていい。それが始まりならば、これから先も耐えていける。
その長く綺麗な手に抱かれることが出来たら、自分を少しだけ優しく包んであげる事ができる。私は心が弾まない様に、小さく息を飲み込んだ。
連れて来られた男のマンションはどこを見ても高級ホテルの様な景色で、古びたアパートから数十分で別世界に来た様だった。
部屋に入ると真っ白なバスルームに通される。置かれていたタオルはふかふかで、優しい柔軟剤の匂いが嬉しくて思わず顔を埋めた。
着るように言われた裸に近い薄っぺらなランジェリーは恥ずかしくて、何度も鏡を見た。それなのにあの指先に早く触れて欲しくて、私は扉を開ける。
「逃げなかったのか? 馬鹿だな」
男が少し戸惑った顔でそう言うので驚いた。ここから逃げる理由なんて無かったし、行く場所なんてどこにも無かったから。
「俺は千尋だ。今から抱き合うのに名前も知らないんじゃ、つまんねーだろ。なぁ……あかり」
顔を掴まれて唇が近付く。知りたかった彼の名前。慣れ親しんだ私の名前が、彼の唇を通すと輝きを持った。
「ちゃんと反応しろよ。稼がなきゃ一生ソープだ」
乾かす時間が勿体無くて、濡れたままでいた私の髪に彼の指先が触れる。恥ずかしい程に私は彼に触れてもらう事を待ち望んでいて、目を見る事も出来ずに重なり合う時を息を潜めて待っていた。
素っ気ない唇は情熱的に私を求めてきて、彼に触れられた事に私は涙が出る程、喜びを感じた。
「あかり。あかり……」
彼が私を呼ぶ声は熱を冷ます事なく、いつまでも耳に残っている。
唇は飴玉のように甘く優しく触れ、媚薬を知ってしまった私は何度も何度も彼を求めた。指先は身体中を甘やかして私を包む。
太ももにぎゅっと指を食い込ませて、私の足を持ち上げる。微かに吐息が漏れて体が重なる時、彼のネックレスが私の体にひやりと触れて、冷たく肌を滑る様に音を鳴らすネックレスは、私とあなたを繋ぐもろい鎖の様。
大きな手のひらは子供を撫でるように私を包み込んで、刹那に永遠を願った。
アダムとイヴの様に禁断の果実を食べて罪を与えられてしまったとしても、楽園に永遠に戻れなくても私は後悔はしない。
交わるはずのないあなたと触れ合った事で私の中の迷いが消えたから。
いくら体が穢れようとも、私はあなたに抱かれたことを忘れない。私はきっと変わらない。
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