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閉ざされたままのカーテンが闇夜に触れて、薄く色付いている。薄暗い明かりが部屋の中を辛うじて照らして、人影くらいは判別ができた。
人の気配がある。ダブルベッドの上にTシャツ姿で横たわる髪の長い女の姿。空のペットボトルがあちこちに転がっていて、その女が動いている様子はない。
心臓はずっと高鳴ったまま。落ち着くことはない。立っているはずの自分の足が他人のものの様に思えて、体の感覚が麻痺していく。
粟立ち始めた肌は血の気が引いて、喉が詰まって息がうまく吸い込めずにいる。
「……あかり」
もうずっと遠い昔に呼びかけた名前。憂いては閉じ込めた。
背を向けたままピクリともしない。絶望を落とし込む真っ暗な深淵が目の前に広がって、思わず声がこぼれて息を呑んだ。
「……あかり。あかり……」
呼びかける為に発した声は思いのほか小さくて、自分の動揺が窺えた。電気を付けても表情は見えなくて、黒く長い髪に白い雪の様な肌が胸を熱くさせた。ベッドに近寄って膝を乗せた重みでベッドが揺れても、あかりはまだ動かない。
確かめたい。確かめたくない。
すぐそこにいるあかりが触れてはならないものに思えて、手が動かせずにいた。
動静を見守る様に息を呑み、あかりの頬に手を伸ばす。
指先にひやりとした熱が触れて、人の失われた生が脳裏に過ぎる。
首筋に手をあてると温もりが伝わって、指先は静かに波打つ。
「……生きてる」
思わず声が漏れて強張った身体から力が抜けて、声に反応しないあかりの頬を叩いた。
「……あかり」
頬から手を離して、体をあかりに寄せる。膝を置いたベッドが軋んで、あかりの体が揺れる。
「あかり……あかり」
顔を寄せて頬を叩く。久しぶりに見たあかりの顔は青白く、一段と痩せた気がした。長いまつ毛は動くことはなく、唇は潤いを失っている。
まつ毛がゆっくりと揺れて、あかりが目を開く。
何度も瞼を開けて閉じてを繰り返し、視線を俺に向けた。
「……あかり……俺だよ。千尋だ。分かるか? 」
目を開けたあかりは視点が合わずに、俺の姿は見えていない様だった。すぐにまた目を閉じたあかりに耳元に寄せて声をかけると、何かに反応して目を開けた。
「ち……ろ」
体はうつ伏せのまま、薄く目を開けて掠れた声で俺の名前を呼ぶ。
「……良かった。生きてて……」
ベッドと体の隙間に手を滑り込ませて、あかりの体を起こす。抱き起こしたあかりの体は無気力で腕に体の重みがかかる。それでもこの重みが求めていたものに思えて、強く抱きしめた。
「……ごめん。ごめんな。すぐここから連れ出してやるから」
シャツ越しに伝わる骨張った体。あかりは身動き一つ取らない。糸を切られた操り人形の様に首は不安定で、手足はだらりとしたままだった。
意思もなく天を仰ぎ、虚な瞳は俺を見ない。ドラッグに溺れ、人である事を手放した人間を俺は知っている。
あかりを抱いたまま携帯を取り出す。瞳孔は開き、ガラス玉の様な目は今にも溶けて消えてしまいそうだった。血の気ない青白い顔。
もう1度目を閉じたら、2度と目を開かないのでは無いのかと不安が煽る。
「……先生。千尋です。ちょっと一人預かってくれませんか? 薬物で……ちょっと……やられちまってます。はい。はい。今から送っていきます。すみません。はい。お願いします」
携帯をポケットにしまって、人形の様なあかりに視線を戻す。
「……あかり。もう大丈夫だから。外寒いから服着よう。ちょっと待ってて」
反応のないあかりに声をかけて、ゆっくりとベッドに横たわらせる。手足がだらんと落ちて、あかりはまた目を閉じる。胸の動きを見て、息をしている事を確認した。
ベッドから降りて部屋を見渡す。相変わらず質素なバッグと、仰向けに寝ているあかりは見覚えのあるTシャツを着ていて、抱き合ったあの日が不意に過ぎって胸の辺りに痛みを覚えた。
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