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「あ……ああ。いやぁーいや! いや! いや! 」
悲鳴の様な叫び声とベッドに埋めていた体が揺れて、ハッと目が覚めて慌てて体を起こした。
「どうした? あかり? あかり? 」
あかりはガタガタと全身を震え上がらせて、体を丸め泣き叫ぶ。何かに怯えて逃げる様に、ベッドの端に体を寄せている。
「……始まったな」
立ち尽くす俺の背後から、先生があかりの元に歩いて来て、先生の低く掠れた声が絶望の始まりを示唆する。
瞳孔は散大し口元は緩み、よだれを垂らす。どこか遠い場所を見ては何かに怯え、あかりは泣き叫んでいた。
「千尋……これから酷いぞ。身内には見るに耐えない症状が出てくる」
普段、表情を動かさない先生が目を細め、あかりの姿を見つめながら呟いた。
「……ちゃんと見届けます。ずっとここにいます」
「抑えつけろ。鎮静剤を打つ」
「……はい」
狂気に取り憑かれた様に泣き叫ぶあかりの腕を掴み、肩を押さえつける。か細い体から想像のつかない力でそれを振り払い、俺を蹴り飛ばす。
「あかり! あかり! 落ち着け! 俺だ」
言葉は何の意味を成さず、あかりは叫び続ける。
「落ち着け! あかりっ」
薬物によって脳が麻痺を起こし、1つの事が頭の中を支配して、それ以外の物を全て拒絶をする。人の言葉を受け入れる隙間などなくて、想像以上の力を発揮する。本人にとっては命に関わる出来事が起きている様なもので、火事場の馬鹿力みたいなものだろうか。本人にどれだけの危機が迫っているのかこちらには何も伝わらず、周囲の人間にはその人がイカれている様にしか見えない。
「せっ……せんせい! ちょっと後ろ回ります」
真正面からだとどうにも押さえきれずに、あかりの背中に回って、羽交い締めにする。その隙に先生が四の字固めの様にあかりの腕を取って、注射を打ち込んだ。
覚醒剤に溺れ、幻聴、幻覚に支配される人間を見たことがある。「人間辞めますか」とキャッチコピーが付けられているが、まさにそうだった。
目はくぼみ、頬はこけて、青白い顔をして、抜け殻のような風貌であの世を見ている。もうそこには死神が嘲笑い、手を差し出しているのだろう。
目の前にいる人間に反応する事もなく、どこか一点を見つめ、ぶつぶつと何かを話す。口を開けたまま舌がだらんと垂れ下がり、その姿は魂を抜かれた者そのものに思えた。
「俺を殺しに来た。もう俺は終わりだ」
男はそう言って突然奇声をあげた。年少上がりで前科持ち。早いうちからヤクザの組に出入りしていて俺と同じくらいの年齢だったが、痩せこせていて、随分と年上に見えた。シャブを打つと最初は2、3日眠らずに興奮状態が続き、その後は死んだ様に眠る。凶暴性も増していき、シャブが抜けた後は使い物にならずに組からもお荷物扱いになった。
連絡が取れないと兄貴に言われて自宅に行くと、シャブのやり過ぎで末期状態。金が無くてシャブも買えず、禁断症状で全身を震わせていた。
「許してくれ。許してくれ。仕方がなかったんだ」
男はそう言って逃げる様に窓から飛び降りた。年少上がり、ヤクザコースの男の生涯に、誰かに殺される覚えは腐るほどあって、男は過去の自分の犯した罪によって死ぬ事になった。
また、気の弱い人間は常に誰かに見られていると錯覚して、罪のない人間を刺したり、虫が体中に這いつくばり、虫を殺そうとナイフで自分の体を刺す。部屋中に虫が湧き出て、逃げ場を失い、自分の腹から湧き出た虫をナイフで刺して死亡した人間もいた。表向きは自殺に見えても、その男は虫を殺そうとしただけだった。
大概の人間はドラッグの離脱症状に耐え切れなく、クスリが切れそうになるとまたクスリを求め、気が付けば人が人で無くなるまで、薬物の世界にどっぷりハマる。
あかりがこれからどれほどの禁断症状に苦しめられていくのか。死にたくなるほどの凄惨な情景が、ゆっくりと気配を見せていた。
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