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「あっ……はい…」
そう言って膝の上に頭をもたげごろりと寝そべる絽真様に、どきりとしながらも徐々に気持ちが慣れ始める。
不思議だ。こんなの大したことない、当たり前だと言わんばかりの彼のオーラが、そんな気分にさせてくれているのだろうか。
「知っているやもしれぬが、俺は元々有名な霊山で修行していた僧でな。一時期は重要な催事を取り仕切る位にまでのぼりつめたのだ」
「そうだったのですか」
「おぬしの国には寺や信仰はあったか」
「…はい、絽真様の宗派とは違うかもしれませんが、ありました」
「そうか……」
一瞬見せたその切なげな笑みにどんな意味が含まれていたのか、私には分からなかった。
「……ある日、道を外れた若い男が連れてこられた」
絽真様は遠い目をして語る。
「自分の妻を殺め、牢屋につながれ、最終的に霊山で修行をし悔い改める道を選んだと申していた。たまたまその男の監督を俺が担当した。男は、自分の妻を殺したとは思えないほど従順で真面目だった。こんな場所に来て修行などせずとも十分改心しているようだった」
「……」
「ある夜、男は俺にぽつりぽつりと話を始めた。妻は自分の親友と長らく恋人関係にあったのだが、親友より裕福だった自分に求婚され、貧しい暮らしをする親のことを考え自分を選んだ。しかし気持ちは諦められず、ズルズルと関係を継続していたそうだ。ある日、予定より早く帰宅すると、まさに睦み合う瞬間を迎えていた妻と親友の姿を目の当たりにし、血が上って殺めてしまったと」
「それは…お辛かったですね」
「その親友とやらはその場を逃げ、行方不明となり…くしくも不貞の証拠は消えてしまい、男の罪だけが残った」
遠くを見ていた絽真様の瞳がこちらを見上げてくる。
「もちろん、男の犯した罪は重い。しかし、彼にそんな罪を背負わせたのは誰だったか。信仰はそこで何の役にも立たなかった。罪を犯した男にも、逃げた親友にも、二人の男の間で苦悩したであろう女にも…」
明るい茶色の瞳はいつも人懐こい色をしているのに、今は険しい色を宿している。
「山の上でいくら祈っても、祭事を取り仕切っても、こんな理不尽な闇に飲まれ、苦悩から救えぬのなら、俺がそこにいる意味は一体なんなのか。そう思い、気づいたときには…俺は霊山を下りていたのだ」
「そんなことが…あったのですね」
絽真様はすっと腕をまくった。その腕には古い傷がいくつも残っている。
「下界は想像以上に荒れていた。生きるために、何度も人を傷つけた。俺も傷ついたがな……」
力強いその手が、すっと私の手を取る。
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