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青年は、ぽーん、とキーボードの鍵盤を弾いた。
音は正しく響いていたが、鍵盤や本体の欠けた部分を指でなぞり、しばらく考えた青年は新品のスピーカーを取り出してキーボードに繋いだ。
楽器のセッティングを終えると、青年は背筋をしゃんと伸ばして、今日の客をぐるりと見渡した。
ベッドに横たわる四人の聴衆は、みな穏やかな顔をしている。
彼らはきっと、今日の演奏会の意味をきちんと理解し、待ち望んでくれていたのだ。
それでも青年は、演奏会前の儀式として、いつもの言葉を口にする。
「今ならまだ、引き返せます」
退室を希望される方はいませんかと、少しの期待を込めて。
けれど首を横に振る以外、誰も動きはしなかった。
青年は目を閉じ、静かに息を吐き出すと、深く深くお辞儀をした。
ぱちぱちと弱々しい拍手に送られて、青年は席につく。
顔を上げた青年は、少女を模したぬいぐるみに目で合図を送った。
すると、ぬいぐるみがむくりと起き上がり、指揮棒をかまえた。ぬいぐるみの手が、静かに動く。
青年は、ぬいぐるみと息を合わせるように、ぽーん、ぽーん、と一音ずつ鍵盤を叩いた。
まるで雨垂れがつくりだすような、心地よいリズムが生まれてゆく。
そのリズムに合わせるように、病室の四隅に置かれた大きなバケツから水がふわりと浮きあがり、まるでシャボン玉のような水膜が広がって部屋を包み込んだ。
途端にキーボード以外の音が消え、病室中に青年の奏でる音だけが響き渡った。
さあ、舞台は整った。
ぬいぐるみが指揮棒を大きく振りおろし、音のリズムが音楽へと変わる。
静かな曲調は徐々に盛り上がりに転じ、それにあわせてぬいぐるみの三つ編みが揺れを増す。
青年の指はしなやかに力強く鍵盤を叩き続け、聴衆は皆、彼の音楽に聞き入っていた。
それゆえに、誰も気がつかない。
時計の針が、異様な早さで進んでいることに。
花瓶の花が花弁を落とし、しおしおと枯れていくことに。
かごに盛られた果物が、徐々に腐っていくことに。
聴衆は、静かに聞いている。
そしていつの間にか聞いていることさえ分からなくなり、四人は静かに息を引き取った。
最後の一音が響き渡ると、ぬいぐるみは指揮棒を降ろした。
その途端、パキン、と音がして、キーボードの一部が砕け散った。
青年は束の間驚いたものの、愛しそうに目を細め、相棒のキーボードを優しくなでた。
世界から隔離された水のベールの中で、青年はもう何年も、請われるままに時間を進める音楽を奏で続けてきた。
不老の青年の、特別な魔法。
そんな青年を支え続けたキーボードでさえも、彼の音楽からは逃れられなかった。
今、四人と一台は旅立ったのだ。
青年は立ち上がると、深々と頭を下げた。
「五名のお客様にささげるレクイエム。ご清聴、ありがとうございました」
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