ないがとう

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 帰りは大学から家まで最短の道は通らず、少し寄り道をしている。本当はすぐにでも家のベッドに寝転がりたいが、家には明日の朝食どころが今日の夕飯すらない。だから、大学と家の間にあるスーパーに行くことにした。入り口から野菜コーナー、肉コーナー、魚コーナーと巡り歩く。俺が目的地としていた麵類コーナーに着くと、そこには色とりどりのカップ麵が並んでいた。他には目もくれず、俺はいくつかのカップ麵を買い物かごに入れてレジへ向かった。  レジの長い列を並んで、やっと自分の番が来る。レジ打ちをするアルバイトが淡々と商品のバーコードを読み取っていく。買い物かごの中の全ての商品を読み取り終わると、会計だけが淡白に伝えられる。形だけの『ありがとう』が無くなって、こういったやり取りは随分と効率的になった。代金を支払って、買い物かごを引き取る。レジから離れたサッカー台で買ったものを一つずつカバンにしまう。  しまいながら、俺は『ありがとう不要論』について友達が話していたことを思い出していた。『ありがとう不要論』から五年、『ありがとう』が無くなって確かに面倒なことが減った。形式だけの感情のこもってない『ありがとう』は消え、感謝を伝えなければならない気苦労も無くなった。  でも、本当にそれでいいのだろうか?必要だったはずの『ありがとう』まで無くなってしまっているのではないか?形式だけの『ありがとう』だってコミュニケーションの一種なんじゃないか?五年前よりどこか人付き合いが悪くなった気だってする。一言お礼をするくらい良いじゃないか。  ただ、本来『ありがとう』なんてのは人助けの副産物で、人助けは極論ただの自己満足だ。『ありがとう』を求めて人助けをするようになってしまったら本末転倒じゃないか。『ありがとう』が無くなっただけで感謝の気持ち自体はあるわけだし。そもそも、感謝はその気持ちが重要で安っぽい言葉で表現してしまっていいのかという疑問も残る。感謝に形があること自体、無粋なんじゃないのかとさえ思えてしまう。  とは言っても……  そうやって、自分の中で結論が出ないまま、俺は全ての商品をカバンに入れ終わった。  「おばあちゃん、重いけど大丈夫?」  「大丈夫、大丈夫。家は近所だから、すぐに着くわよ。」  スーパーを出る時にそんな会話が聞こえた。話しているのは若い店員と腰の曲がったおばあちゃんだった。若い店員は俺と同世代くらいで、おばあちゃんは80歳は越えていそうな見た目をしている。若い店員の手には食品で一杯になった袋が二つ握られていた。店員が言う通り、その袋が重たいことは持たずとも明らかだった。店員はおばあちゃんが心配でわざわざ入り口まで運んだのだろう。『ありがとう』なんてなくても人助けをする優しい人はいるんだなぁ、と俺は感心していた。  「あ、そこの兄ちゃん、ちょっと手伝ってくれないか?」  周囲を見渡すが、兄ちゃんと呼ばれるような人は俺しかいない。店員の方に視線を戻すと、店員は「君のことだ」と言いたげな顔で俺を見ていた。  「暇なら、おばあちゃんの荷物運んでやってくれないか?近所らしいから、そんなに時間かからないと思うし。おばあちゃん、家ってどの辺?」  おばあちゃんが答える。俺の家への帰り道の途中にあるようだ。呼び止められてから口を挟まず突っ立っていると、あれよあれよと話が進んで店員から俺に二つの袋が渡される。流れで受け取ると、店員はすぐさまスーパーの中に戻っていってしまった。
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