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だからこその迷いが私にはあった。
口にすれば、まだ何か渋る要素があったのかと相手にツッコまれそうなものだが。特別な存在と感じた人間の足を引っ張りたくないなんて考えは、きっと、誰しも抱く瞬間が一度はあるのだと私は思っている。
豆知識程度の続きを調理の合間に語る内に、甘酢あんかけは滞りなく進み。耳を傾けてくれる忠道くんからも、時折こちらの知らない興味深いトリビアが返ってきた。
お互いがお互いの担当する品の手伝いをしながら、心穏やかな雰囲気を保ちつつ、時々刺激的な掛け合いを交え、食卓を作り上げていく。
当たり前になった日常が、私の情緒のコントロールを狂わせている。理性ではどうしようもなくなる程に、今の状況が自分にとって幸福なのだといつから理解してしまったのであろうか。
「忠道くん」
「はぁい?」
私が唐突に問いかけたのは、ダイニングテーブルに対面で着席し、卵とワカメの鶏ガラスープ、蒸し野菜とむきエビのゴマだれかけ、揚げ魚の甘酢あんかけ、切り餅入り中華風なんちゃっておこわという、独り身では絶対に作らない献立を、二人で半分ほど平らげた頃のことだった。
「野暮な話って理解した上で確認するけどさ。忠道くんは私を、愛してくれてるんだな」
「勿論」
濃厚なゴマだれを絡めたエビをモグモグと、嬉しそうな顔で頬張っていた彼は、笑みを絶やすこともなく、飾りっけのない朗らかな様子で肯定してみせた。
もう気恥しさは捨てたらしく、私が声色を少し下げた上で神妙な面持ちをしていなければ、口角はもっと得意げで普段通りの無駄に明るいドヤ顔をしていたに違いない。
「さっき言った言葉をあえてそのまま使うなら。例えそれが、無功徳だとしても?」
言って、猫舌故に後回しにしていたとろみのあるスープを口に含み、緊張で乾いていく喉を潤す。
「と、言うと?」
失敗した。烏龍茶にするべきだったと後悔するも遅し。口の中を火傷した。何の含みもない平常のトーンで問い返した彼に気取られぬよう灼熱の一口を一気に飲み下すと、今度は喉の奥にダメージを負った。
常に平静を装ってはいるが、内心、私は相当余裕がなく注意力散漫な状態のようだ。
「先にあるのが、何も伴わない、無意味なものだとしても」
「そうですよ?」
声も椅子もひっくり返りそうになりながら、お得意の無表情を貫いたまま、手にしてからずっと見つめ続けていたスープの表面からスっと視線を外し、スープ皿をテーブルに置く。
距離感を間違えて手を離すタイミングが早すぎた。陶器製の重厚感のあるそれは数センチ落下し、大きめの音をたて、左手の指にはスープと共に跳ねたワカメが絡みついた。
非常に熱い。場の空気を散らかしたくないのに、とんだ踏んだり蹴ったりだ。
「えーっと。さっきから大丈夫ですか・・・? 上の空ですよ? 落ち着いてください」
「だ、大丈夫・・・ただ」
粘度の高い汁とワカメをそのまま食み、あくまで冷静を装いながら私は呟く。
「忠道くんは・・・その。子ども、好きなのかなって」
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