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 翌日、晴子は休憩室の椅子を二つ確保した。ひとつには晴子が座り、隣の椅子にはクーラー除けのために着ていたカーディガンをかけておく。  今日は琴美はいつものランチ仲間と座っているから側に寄ってくることはないだろう。安心してコンビニ弁当を開いた。  茶色の弁当を半分ほど食べすすんだころ、桃比呂が休憩室に入ってきた。晴子がカーディガンをどけて椅子を空けてやると、やはりこくりと頷くような会釈を見せて何も言わずに座り、コンビニの袋からおにぎりを取り出した。  周囲からチラチラと視線がそそがれていることに晴子は気づいたが、桃比呂は気づいているのかいないのか、黙然とおにぎりを頬張っている。長身な桃比呂が大きな両手で大切そうに小さなおにぎりを握っている姿は観察に値する。晴子は時おり隣の席に目を向けた。  一口かじって二十回咀嚼、飲み込む。  一口かじって二十回咀嚼、飲み込む。    桃比呂は律儀にそれを繰り返した。晴子は頬張ったご飯をろくに噛みもせず飲み込んでいたのだが、ちょっと顔を上げて考えると二十回噛んでみた。ご飯が柔らかく甘くなったような気もしたが、生来のせっかちさが顔を出して結局また丸飲みに戻った。  それから毎日、二人は隣り合って座り黙々とご飯を食べた。晴子はコンビニで一番安い弁当、桃比呂はいつもオカカとサケのおにぎりをひとつずつ。二人とも判で押したように毎日毎日同じものを食べ続けた。  みんな気を利かせているのだろう、昼休みには二人に近づいてくる人間は誰もいない。だが、午後三時の休憩時間に晴子が給茶機で麦茶を汲んでいると必ず誰かが話しかけてきた。  とくにしつこいのが井上順子(いのうえじゅんこ)という五十年配の女性だった。琴美がランチタイムを一緒に過ごしているグループのリーダー格で、琴美が言うには社内のことは何でも知っている事情通だという話だった。  生まれてこの方、人のうわさに興味がない晴子は琴美から聞いた井上順子情報そのものを忘れていたのだが、三度も話しかけられたころにはすっかり思い出した。  しつこくしつこく話しかけられ続けるうちに、事情通になるには精力的に人に干渉していく必要があるのだということを嫌々ながら学んだ。 「ねえ、相良さん。いい加減に教えてよ。いつから桃ちゃんと付き合ってるの」 「べつに」 「全然気づかなかったわよお。不思議な組み合わせだわ」 「べつに」  何を聞かれても「べつに」としか答えない晴子のことが気にならない様子の順子は、毎日毎日、飽きもせず同じことを尋ねつづけた。きっとそのしつこさで今までどんな人間からも情報を引き出したという実績があるのだろう。  晴子がマグカップを抱えて給湯室を出ても、順子は後ろからついてきて熱心に話しかけつづける。とうとう晴子の我慢の限界がきた。 「相良さん……」 「うるさい!」    思いっきり怒鳴って振り返ると、そこに立っていたのは順子ではなく永井恒夫(ながいつねお)だった。  桃比呂のさらに上の上司を怒鳴りつけた晴子はさすがに固まった。永井の薄くなった頭髪越しに、こちらの様子を興味津々で見つめている順子の姿が見えて、晴子は順子を睨みつけた。  永井はちらりと振り返ってキューピー人形のような丸い目で順子の姿を確認すると、小さくため息を吐いて同情の目を晴子に向けた。 「すいませんね、今日もうるさく言いに来ましたよ。相良さん、有給どうするの。たまりにたまってるんだけど」  有給という言葉にもさっぱり興味がない晴子は面倒くさそうに「はあ」と呟いた。 「はあ、じゃなくてさ。取るの、取らないの」 「じゃあ、取ります」 「あっそ。休暇取得の届け書を出しておいてよ。どうせならドーンと十日くらい休んだっていいんだよ」  晴子がいなくても会社は回るのだと暗に言われたのだが、そのことに腹は立たなかった。  自分がこの世の中に何かの影響を与えることが出来るのだなどと夢見たことはない。  世界は晴子にとって息苦しく自分を縛る場所、一人静かに消えていくことすら許してくれない場所だった。  自分のせいでなにかが変わってしまうなんて恐ろしくて仕方ない。自分が関わったら、ろくなことにならない。きっとなにもかも、もっとひどい有様になるのは目に見えている。晴子はいてもいなくてもいい存在だと認定されていることを知ってほっとした。  有休をとったら十日間は順子にあれこれ話しかけられることがない、少しは息も吸いやすくなるだろうと思うと、心が浮きたつような気がした。  有給休暇の申請のために届出に必要な書類をもらってきて、残った休憩時間に書き上げようと休憩室に行くと、桃比呂がいつもの席に座っていた。  普段はずっと机の前から動かないのに珍しいことだ。晴子はなんとなくいつも通り桃比呂の隣の席に座る。手許を覗くと桃比呂も何かの届け書を書いていた。  晴子はカーディガンのポケットからボールペンを取り出して用紙に記入していく。名前と社員番号、希望日数は十日、理由を何と書こうかと迷って目を上げると、桃比呂が晴子の手許を見つめていた。そういえば、桃比呂には言っておいた方がいいのではないかと晴子は休みをとることを伝えようとした。 「十日間、来ない」 「あ、うん」  桃比呂は心ここにあらずといった様子で、やはり晴子の手許を見つめている。 「聞いてる?」 「うん」  返事はあるが聞いていないことは明らかだった。しばらく観察して、どうも桃比呂の関心は届け書ではなく晴子のボールペンにあるようだと気づいた。  オランダ村のゆるキャラ、ちゅーりっぷるの、やや大きめのぬいぐるみがぶら下がったボールペン。琴美が旅行に行ったお土産にくれたものだ。 「ちゅーりっぷる好き?」 「うん。え、いや、特別好きなわけじゃないんだけど」 「ゆるキャラ好き?」 「結構……」  なぜか申し訳なさそうに俯いた桃比呂の鼻先に、晴子はボールペンを突き出した。 「あげる」 「え?」 「あげる」 「え、そんな悪いから……」  そう言いながらも桃比呂はちらちらと、ボールペンにぶら下がっている、ちゅーりっぷるを見ている。どうやら目が離せないようだ。 「ぬいぐるみ邪魔だから」  桃比呂の表情がぱっと明るくなった。 「それじゃあ、僕のボールペンと交換しましょう」  桃比呂は握っていたボールペンを晴子に差し出した。ひと目で高級だとわかるボールペンだ。ボディ部分の光沢は黒曜石のようで、ペン先やクリップの銀色部分には曇りひとつない。  桃比呂の手で隠れてチラリとしか見えないが、どうやら名入れもされているようだ。さすがの晴子もこれには怯んだ。 「いや、悪いから」 「どうしても駄目ですか」  悲しそうな目で晴子をまっすぐ見つめる桃比呂はおやつを目の前にして「待て」と言われた忠犬の姿を思わせる。晴子はおかしくなってニヤリと笑った。 「べつに」  晴子がボールペンを差し出すと、桃比呂はちゅーりっぷるのぬいぐるみを両手で包み込んで胸に抱きしめた。 「ありがとう!」  とっておきのご褒美をもらったかのような桃比呂の喜びようが面白く、晴子はニヤニヤと笑い続けた。桃比呂が交換にと渡してくれた高級ボールペンにはやはり名入れがしてあったが、印字されていたのは「MOMOKO」という名前で、これも誰かと交換したものなのかと晴子は首をひねった。
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