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 晴子は仕事が終わるとさっさと家に帰る。なににも興味をもたない晴子に、寄り道する場所などない。人がいないことを見計らってぼろビルの古くてギイギイと嫌な音がするエレベーターに乗る。  自宅の玄関ドアに耳を押し付けて様子を探る。物音はしていないようだ。平日の夕方、両親は仕事でまだ帰っていない時間だ。けれど用心に越したことはない。音を立てないように注意して鍵を鍵穴にさしこみ、ゆっくりと回す。  回り切る最後のところで急に手ごたえが軽くなるため、内部のシリンダーが音を立てないようにするのにコツがいる。このコツを体得した時はニヤリと笑みが浮かぶほどに嬉しかったものだ。全く音を立てずに鍵を開け、そっとドアノブを回した。 「お帰り、お姉ちゃん」  玄関の上り口に妹が座って本を読んでいた。あまりに驚いた晴子は思わず息を飲んだ。妹はそんなことを気にもしない様子で淡々と姉に話しかける。 「お姉ちゃん、空き巣みたいだね。鍵が開いたのに全然気づかなかったよ」 「あんた、何して……」 「読書してるの」 「なんでいる」 「帰ってきたから。それより、お姉ちゃん。『あんた』なんて言ってたら、お母さんに叱られるよ」  確かに『あんた』呼ばわりは失礼だと晴子だって思う。けれど、妹が家を出てからまる四年、それ以前も晴子が離れに籠っていたために、めったに顔を合わせなかった。  あまりに久しぶりすぎて妹の、朝子という名前がとっさには出てこなかったのだ。 「私、しばらく家にいるからね」 「なんで」  朝子は短大時代から独り暮らしを始めて、最近は家から遠く離れた町で保育士として働いているはずだった。 「花嫁修業するから」 「あ、そ」  晴子は靴を脱ぐと、朝子の足をまたいで離れに向かった。 「お姉ちゃんも結婚式に出てよ」  朝子の言葉に返事もせず、晴子は離れのドアを閉めた。  有給休暇を取ったはいいが、晴子にはなにもすることがなかった。昼近くに起きだして寝巻きのまま部屋でボーっとして過ごす。  両親は昼間はともに仕事に出かけて留守。朝子も結婚準備に忙しいらしくほとんど家にはいないようだった。  とりあえずドアの前に置いてある、母が洗濯した衣服を部屋に引き入れて押し入れにしまった。家人の見ていない隙を狙ってコソコソと行動しなくていいのは楽だったが、そうすると気が緩んで食事をするのが億劫になった。食べ物を買いに行くのも考えただけで面倒だ。  冷蔵庫のものを漁って食べても文句を言われることなどないのはわかっていたが、家族がいつもいるギスギスした空気が満ちたところには足を踏み入れたくない。何もせず畳に寝転んで天井を見つめていた。  窓の外を通っていく人の話し声、遠くから聞こえる車の音、どこかで吠えている犬の声。晴子は首を起こして犬の鳴き声に耳を澄ませた。  吠える犬は嫌いだ。立っていって窓をぴしゃりと閉めてカーテンも引く。部屋は驚くほど暗く蒸し暑くなった。汗が拭きだして気持ちが悪い。目をつぶると悪夢を見そうだと思ったが、自然と瞼は落ちた。  大学生の頃のことだ。通学路に大きなお屋敷があった。塀に沿って敷地の端から端まで歩くのに七十秒かかった。  その間、塀の上から顔を突き出したドーベルマンに吠えられ続けた。晴子は嫌な思いをすることで、一秒という時間が案外と長いのだということを知った。入学してすぐは恐ろしくて仕方なかった。  違う道を通れるものなら通学路を変えたかったのだが、大学までは一本道で、どうしてもドーベルマンに吠えられ続けるしかなかった。  しかし、二か月もすると慣れた。吠えられても平気で塀の側を通れるようになった。どうせドーベルマンは塀の外に出られやしない。ぎゃあぎゃあと喚き散らすことしか出来ないのだ。  恐れがなくなっても、不快さは残った。毎日毎日、吠えられて気持ちがいいはずがない。晴子は朝夕、ドーベルマンを睨みつけながら通り過ぎた。  こいつがいなければ、どれだけすっきりするだろう。安全な場所から吠えることしか出来ない犬に生きている価値なんかあるのだろうか。なんの理由もなく人を傷つけようとする犬に存在価値なんか。晴子はドーベルマンがこの世からいなくなるように願う日々を過ごし続けた。  ドーベルマンはある日、ぱたりと吠えなくなった。吠えないように躾けられたのかと思っていたが、どうやら死んでしまったらしいという噂を耳にした。  ドーベルマンがいなくなったことを学生たちは喜んでいた。晴子はいい気味だと思って高い塀を見上げた。  その時、そこに真っ黒な穴がぽかりと開いているのが見えて晴子はあわてて通り過ぎた。黒い穴は悪意が固まったもののように思えた。  ドーベルマンを嫌った学生たちの、人を憎んで吠え続けたドーベルマンの、ドーベルマンが消えるように願い続けた晴子の、そんな悪意が形になった穴のように思えた。  その黒い穴はいつの間にか塀を乗り越えて、晴子のそばについて回るようになった。晴子は生活のあらゆるところでその穴につまずいた。    朝食をとっていると膝に穴が触れてきた。家を出ようとすると穴が玄関にわだかまった。帰宅すると家の奥からうつろな穴がぞろりぞろりと近づいてきた。  なにより、通学途中のドーベルマンがいたお屋敷の前に、飛び越せない水たまりのように大きな黒い穴が待ち構えていた。  そうして穴から吹き出る風が、冷たく晴子の足を凍らせた。晴子は穴を恐れた。油断していると、その真っ黒な穴に引きずり込まれそうになった。 「気のせいでしょ」  まともに会話しなくなって長い月日が経っていたが、勇気を出して母に相談した。その時、母はすげなく答えたのだった。 「罪悪感でそう思うだけよ。バカなこと言ってないでさっさと学校に行きなさい」  納得できないまま反論もできずに、晴子は離れに戻った。通学路の黒い穴は一段と広がったように思えた。晴子は毎日ドーベルマンがいた塀のそばを通った。  塀の方に顔を向けることなど出来なくて、下を向いたまま穴の間際を爪先立って歩いた。今はもう聞こえないはずのドーベルマンの吠え声が耳の底にこびりついている。  いつまでたっても吠え声は消えず、爪先立つことに疲れた晴子は身動きが取れなくなって、ある日、穴に捕まった。  穴の中は昏く、なんの臭いもせず、触覚も働かず、晴子を脅かすなにものの存在も感じられなかった。それなのに、ただなにか不安な気持ちがゾワゾワと背筋を這い上った。  助けを求めたい、誰かにすがりたかった。だが、この穴のことを誰になんと言って説明すればいいのか、どうやって理解してもらえばいいのかわからない。  途方に暮れて立ち尽くしても晴子は泣かなかった。ただ、動けなかった。  大学を中退したのは突然に体が動かなくなったからだ。学校に行こうと思うと足が重くだるくなり、玄関でしゃがみこんでしまう。夜は眠れず食事もほとんど喉を通らない。  何をするのも億劫で、そもそも何をする気にもなれないほど頭がぼんやりして重い。内科で検査を受けても身体に悪いところは見つからない。そのうち家から出られなくなり、少し体調が良くなると玄関まで行っては、しゃがみこむという事を繰り返す日々を送った。  そうやって二か月を過ごし、ある日ハッとした。もしかしたら自分は鬱病なのではないだろうか? インターネットで鬱について調べると晴子の状態はまさしく鬱病の症状に当てはまった。  製薬会社のサイトで鬱病診断というテストをしてみると「病院の受診をおすすめします」と言われる結果になった。  大学にカウンセリングルームがあることを思い出し、カウンセラーに相談しようと決死の思いで電車に乗って学校へ行った。髪はぼさぼさ、風呂には何日も入ることができていない。けれどそんなことにかまっている余裕はなかった。  這うような思いで黒い穴がわだかまる大学までの坂道を登っていった。穴が足首に触れ、晴子はぞっと寒気に震えたが、すぐそこに光があるのではないかという望みを抱いて進み続けた。  カウンセリングルームのドアをノックすると白衣を着た中年のふっくらした女性が顔を出した。晴子は今にも目の前の女性に倒れかかりそうなほど憔悴していた。 「ちょっと、鬱っぽいんですけど」  話すだけで息切れがした。カウンセラーはそんな晴子に困った様子を見せ、とても親切そうな声で言った。 「カウンセリングは予約制なの。これから予約の学生が来るから、悪いんだけど……」  晴子はカウンセラーというのは誰にでもオープンで優しいものだと思っていた。助けを求めれば救ってくれるのだと。しかし、それは思い込みだと知った。目の前のカウンセラーは優し気な口調だったが、あからさまに晴子を拒絶していた。  その偽物の優しさは鋭い刃になって晴子を切りつけた。晴子が今まですがりついてきた、社会と繋がっているための最後の細い糸が切れた瞬間だった。  晴子は挨拶もせずにカウンセリングルームに背を向けると事務室に向かった。身体は重く、カタツムリよりも遅いのではないかと思える速度だったが、確固とした態度で歩いた。 「退学します」  その判断が鬱状態からくる投げやりな思いだったのか、カウンセラーに拒絶されたショックのために躁状態になってしまったのか、もとから心の底に眠っていた願望だったのかはわからない。  事務室では、真面目そうな事務員から、ゆっくり考えて決めるようにと何度も言われた。今まで通った二年間が水の泡だ、せっかく受けていた奨学金ももったいないと説得された。  だが、何を言われても、やめると言って貫き通した。    その日、みょうな行動力を発揮した晴子は、それから六年を過ごし二十六歳になった今になって考えても、驚くほどに生き生きとしていた。
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