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それぞれの後始末
8月に入ってインフルエンザのように感染が下火になるという望みに反して感染者数は増加に転じていた。
「今年のお盆も秋田には帰れそうにないな・・・」
あの夜以降、三橋からの連絡もなく僕も彼女に連絡することはなかった。
「なにもなかった・・・なにも・・・でもあの夜の彼女を簡単には忘れられる訳じゃない」
猛暑が鎌倉の街を包みだす、自転車はいつも行くスターバックスに向かっていた、今日はリモートワーク、僕はそこで小説の続きを書く。
「高橋さん、今日もリモートですか?」
顔なじみになったバリスタが声を掛けてくる。
「そうなんだ、チャイティラテグランデをアイスであとぉ、これを」
そう言ってショーケースから根菜チキンラップを手渡した。
僕はプールが見えるいつもの席に座ってパソコンを開いて根菜チキンラップを食べながらメールをチェックする。
「私、8月末で退職したいと思います。詳しくは今度部長が出社した時にお伝えします」
齋藤美穂から1行のメールが入っていた。
「やっぱり・・・な 」
スタバに来て早々気の重くなるメールを読みながらチャイティラテを一口飲んだ。
メールに一通り目お通したが、齋藤美穂のメール以外は大した内容じゃなく僕は小説のアイコンを開く。
「桜色の涙・・・第4章 綴られる想い・・・」
主人公が部長の堤に恋に落ちていく・・・親友の美咲に言われる。
「もしその人を本当に好きだったら・・・伝えなきゃダメ」
書き進みながら堤はどことなく自分に似てきていることに気づいた。
この後、離婚する設定も・・・
小説の中の主人公の娘 遥は本当に母親想いのいい子で・・・これも自分が思っている理想なのか?現実と小説の世界が交差する。
そんなことを思いながら誰かに読んで欲しい訳じゃない小説を書き進めて行く。
主人公の乳癌が骨転移するところでアイコンを閉じた。
「なんだろ?書いていて自分まで辛くなってきた?」
スターバックスに入ってあっという間に1時間を過ぎていてメールをチェックすると齋藤美穂からのメールが届いていた。
「高橋部長、私の出社日を訊いてきた女性がいたみたいなんですけど、総務に報告した方がいいですか?電話に出た人が取引先の人だと思って伝えてしまったみたいです、連休明けの8月11日が出社日ですって」
「わかった、とにかくその前に一度会社で、明日はどう?」
「大丈夫です、今度私にも鰻ごちそうしてください」
(私にも?)
間違いなく三橋だと思った、あの時はもう気にしていないって言ってたのにまたなぜ?
僕は今書いた第9章までをアップしてパソコンを閉じて店を後にした。
外に出ると焼けるような太陽の日差しが照り付ける、自転車に跨った時不意にスマートフォンが震えた。
(家から?)
「もしもし」
「あっ 私、今?大丈夫ですか?」
さおりの冷静な声が真夏の暑い空気を一気に冷やした。
「ぅあぁ、大丈夫だけど」
「弁護士とも相談して、財産分与とか、希実のこととか、養育費とかいろいろと・・・都合のいい時一度来てくれない」
「わかった、じゃあ9月5日の土曜日は?」
「そうね・・・わかった5日、じゃあ10時は?」
「わかった10時に行くから」
(いよいよか・・・家に来てって、帰るんじゃなんだな・・・)
(少し海風にでも当たって行こう)
そう言って自転車は由比ヶ浜の方に走り出した。
真夏の太陽が海を照りつける寂しい海、新型コロナウイルスの影響でいつも賑わっている海の家は一軒もない。
自転車を降りて、裸足になって由比ヶ浜の砂浜を歩く。
「あつぅ~」
僕は波打ち際まで全力で走りそのまま海に入って叫んでいた。
溜池山王駅に降りてここは本当に赤坂なのか?と思うほど人が少ないことに驚く。
「おはようございます」
「おはよう・・・」
「会議室A5予約してます」
齋藤美穂が少し不安そうな声でそう伝えた。
「わかったじゃあ15分後に」
「はい、お願いします」
オフィスは閑散とし通常の半分以下の人数しかいなかった。
「失礼します・・・」
齋藤美穂が会議室に入ってきた。
「とりあえず座って・・・」
「はい・・・失礼します」
「なにから話せばいいのかな?」
「え?何からって?」
「あまり回りくどい言い方は性に合わないからストレートに訊くよ」
「渡邊とは?なんかあった?」
「えっ?何かって?」
「今回の退職ともしかして関係あるの?」
「高橋部長・・・」
齋藤美穂の大きな瞳からボロボロと大粒の涙がこぼれ出した。
「ぉおい・・・大丈夫?」
「私・・・私どうしたらいいのか・・・私、渡邊さんの子供を・・・」
そう言って泣き崩れた。
「そうか、ホントだったのか」
「今更だけど・・・なんで?なんで渡邊と歳だって・・・」
齋藤美穂は泣きじゃくりながら話し始めた。
「私、発注で大きなミスしちゃったことがあって・・・その時渡邊さんが私のミスを全部カバーしてくれて、工場とも掛け合ってくれて」
「そお、渡邊らしいよ・・・」
「その時は感謝しかなくて」
「その後偶然、渡邊さんがひとりで居酒屋にいるの見かけて、私も付き合っていた彼と別れたばかりで弱ってたんですよね」
「だからって」
「はい、わかってます、でも弱っていたのは私だけじゃなくて、私なんかより渡邊さんの方が・・・」
「渡邊が?」
「仕事でも・・・それより奥さんとも上手くいってないって、俺となんか一緒にならなきゃなつきはもっと幸せになってたって・・・渡邊さん酔って・・・泣いてました」
「なつき・・・」
「奥さんの名前ですよね」
「うん・・・」
「私、ほっとけなくて渡邊さんのこと」
「それで・・・」
「その夜限りって・・・でも」
「そして・・・妊娠した?渡邊の・・・」
「こんなことになるなんて・・・渡邊さん離婚してなつきさんを解放してあげるんだって、それが・・・亡くなるなんて」
「これからどうするの?」
「産みます、渡邊さんの、彼と私の子供を・・・」
「それでいいの?」
「はい・・・仙台で育てます」
「もう覚悟、できてるんだね」
「今月、仙台に帰って両親にちゃんと伝えるつもりです。勘当だって言われるかも知れないけど」
齋藤美穂はそう言って涙を拭った。
「わかった、僕も出来るだけのことはするよ」
「ありがとうございます、私のシフト訊いてきたのって渡邊さんの・・・」
「たぶん・・・出社日11日って言ったんだよね?」
「はい、そう聞いてます」
「11日は僕も出社するよ、彼女来るかも知れないし・・・」
「彼女って?奥さんですか?」
「そぉ渡邊の・・・旧姓三橋なつき」
「ところで・・・今は?何週目?」
「もう少しで16週に入ります」
「そぉ、おめでとう、ランチ鰻でも食べに行くか?」
「はい、ごちそうになります」
齋藤美穂は弾けるような笑顔でそう答えた。
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