ありがとうは呪いの言葉

1/1
前へ
/1ページ
次へ
 担任の教師は耳を疑ったという表情で訊き返した。 「お父さん、今何とおっしゃいました?」  父親の良太は、椅子の背もたれにふんぞり返って、ことさらに教師を見下すような表情で繰り返した。 「女に学問は要らねえって言ったんだよ。高校なんか行く必要はねえだろ」  教師は精一杯の愛想笑いを作りながら言う。 「いえ、明治時代じゃないんですから。絵里子さんは十分に公立の、それも進学実績の高い高校を狙える成績なんですし。令和の時代に高校にも行かないというのは、さすがにどうかと」  良太は鼻でせせら笑う。 「女に学なんか要らねえんだよ!」  教師は良太の隣に座っている絵里子に、助けを求めるような視線を向けた。 「高橋さん、お父さんはこう言ってらっしゃるが、君の希望はどうなのかな?」  絵里子は教師と目を合わせる事もせず、机の表面を見つめたまま答えた。 「父がそう言うなら、別にそれでいいです」  教師が身を乗り出して小声で良太に言う。 「あの、もし経済的な事が理由でしたら、奨学金制度をご紹介できますが」  良太は椅子ごと後すざり、右足で机の側面を蹴り飛ばした。 「俺を貧乏人呼ばわりすんのか、あんた? 自分の子どもを進学させるかどうか決めるのは親の権利だろうが! うちの娘に進学しろとか、そそのかすのはやめてくれや!」  教師もそれ以上は何も言えなくなった。こうして絵里子の一学期末の三者面談は終わった。  その夜、11時過ぎに仕事から帰って来た父親の気配を察し、絵里子は急いで教科書とノートをカバンに隠し、狭いアパートの部屋の隅からボロボロの 古いマンガ雑誌を手に取った。  勉強しているところを父親に見られようものなら、くどくどと嫌味を言われるし、機嫌が悪い時は殴られる事もあるからだ。  良太は絵里子の様子を見て満足そうにニヤリと笑い、台所から安酒の瓶を持って来てラッパ飲みを始めた。そして絵里子に向かって言った。 「分かってんだろうな。高校なんて行ったら、金がいくらかかるか分かったもんじゃねえ。おまえは女なんだから、中学卒業したら体で稼げる仕事はいくらでもあるんだ。学校のセンコーの言う事に耳貸すんじゃねえぞ」  絵里子は作り笑いを浮かべて答える。昔からだらしない父親だったが、母親が五年前に病気で他界してから、誰も諫める者がいなくなり、歯止めが効かなくなっていた。 「分かってるよ、お父さん。風俗で何でもやって、育ててもらった恩は返すからさ」  数日後の昼休み、絵里子は一人ポツンと机に座って窓の外を眺めていた。クラスメートたちの明るい話し声が聞こえてきた。 「ねえ、由美は高校どこ受けるの?」 「県立普通科。でも今の成績だと厳しいって三者面談で言われちゃってさ」 「あたしなんか、由美が滑り止めで受ける私立の方が本命だよ。ま、最悪、一緒の高校へ行けると思えばいいじゃん」 「あはは、それもそうか」  その時校内放送のチャイムが鳴り、突然絵里子の名前が告げられた。 「三年二組の高橋絵里子さん。至急職員室へ来て下さい」  当惑した表情で職員室の扉を開けると、担任の教師が大きく手招きした。 「高橋さん、こっち。君に電話だ」  訳が分からないまま固定電話の受話器を耳に当てると、聞きなれた男の声がした。父親が務めている、ちっぽけな運送会社の社長だった。 「あ、社長さんですか」 「よかった、連絡がついて。絵里子ちゃん、落ち着いて聞いてくれよ。実はお父さんが事故を起こしたんだ」  絵里子の目に期待の光が宿った。 「お父さんがどうかしたんですか?」  だが社長の次の言葉で、絵里子の期待は失望に変わった。 「いや、お父さんのトラックが人をはねてしまったんだ。お父さんは今警察署にいる。今夜は帰れないかもしれない」 「それでお父さんはどうなるんですか?」 「それはまだ分からない。ただ、事故の状況がちょっと変わっているようでね。今夜一人で大丈夫かい? なんならうちへ来てもいいんだよ。俺の女房も絵里子ちゃんの事心配してるし」 「いえ、大丈夫です。ええ、はい、じゃあ、その時はお世話になります」  三日後の夕方、良太は疲れ切った顔で自宅へ帰って来た。荷物を部屋の隅に放り投げ、畳の上にどすんと胡坐をかいて座る。  下手に何か尋ねると暴力を振るわれるので、絵里子は何も言わず、横を向いていた。すると良太が突然言った。 「絵里子、おまえ高校へ行け」 「え?」  絵里子は自分の耳を疑った。 「どうしたんだよ、急に。うちにそんなお金無いんでしょ?」 「親が行けと言ってんだから、つべこべ言わずに進学しろ。今度担任のあのセンコーにもう一回会わせろ」  それから良太の絵里子に対する態度、特に勉強、進学に関する言動はガラッと変わった。  行政から支給される、就学援助のお金をキャバクラやギャンブルに使い込む事もなくなり、絵里子は三か月分滞納していた学校の給食費を支払う事ができた。  良太は以前はよく二日酔いで仕事を欠勤していたが、相変わらず酒は飲むとは言え、仕事に差し支える程ではなくなった。  絵里子はノート、参考書などを必要なだけ買えるようになり、第一志望の高校の入試合格は確実視されるところまで成績が上がった。  秋が深まった頃、絵里子が夕方スーパーでの買い物をして袋を下げて家への道を歩いていると、すぐ横に軽トラックが停車して、短く二回クラクションが鳴った。  運転席の窓が下にスライドして開き、父親の運送会社の社長が額の禿げ上がった丸顔をのぞかせた。 「絵里子ちゃん、買い物の帰りかい?」 「あ、社長さん。こんにちわ。自分で配達してたんですか?」 「そうなんだよ。社長おん自ら運転しなきゃいけない零細企業だからね。今ちょっとだけ時間あるかい? 絵里子ちゃんに話しておきたい事があってね」 「十五分とか、そのぐらいなら」 「じゃあ、その先の公園に行っててくれるかい。この車その辺に駐車して来るから」  数分で社長は公園へやって来た。両手には、近所のコンビニで買ったのだろう、缶コーヒーとジュースのペットボトルを持っていた。  公園の隅のベンチに二人並んで座ると、社長は手の中の飲み物を差し出した。 「絵里子ちゃんはどっちがいい? ジュースでいいかな?」  絵里子がうなずくとペットボトルを渡し、それぞれ一口飲んだ頃合いで、社長が小声で訊いた。 「お父さんの様子は最近どうだい? いや実は絵里子ちゃんの家庭の問題というか、それにうすうす気づいてはいたんだけどね。いくら社員でもよそ様の家庭の中の事にまでは口出しできないからね」 「前と違って、まあ、ちゃんとしてきてます」  社長はもう一口缶コーヒーをすすると、周りを見回して他に人がいない事を確かめてから、絵里子に顔を近づけた。 「ここだけの話だけどね、お父さんが私に金を貸してくれと頼んできてね」  絵里子は思わず眉をひそめた。 「また飲み屋の借金とかですか?」  社長は笑いながら空いた左手を大きく振った。 「いやいや、絵里子ちゃんの進学のためにちょいと金が必要だと言われてね。あ、これ、お父さんには内緒だよ」  絵里子がきょとんとして顔でうなずく。社長は上機嫌な表情で続けた。 「高校無償化ってのかい? 授業料は実質ただになるらしいけど、制服とか教科書とか、いろいろ金はかかるだろ。そのための金を借りたいと言ってね。人間変われば変わるもんだね。今のあいつなら貸してやろうと思ってる。だから、絵里子ちゃん、お金の事は心配しないでしっかり勉強するんだよ」  絵里子は姿勢を正して、社長に頭を下げた。 「それはありがとうございます。父がまたご迷惑をかけてすみません」 「いやいや、もとはと言えば俺の会社の給料が安いのが原因だ。気にしない、気にしない。それにしても、よっぽどあの時の件がこたえたんだな。人が変わったように真面目になりやがった」 「あの時の件って何ですか?」 「ああ、聞いてないのか。俺からこの話聞いたってのは、お父さんには内緒だよ」  絵里子がうなずくと、社長はまた周囲を見回して人がいないのを確かめた。 「夏前に、お父さんがトラックで人をはねちまった事があっただろ。あれがとんでもない変わったケースでね」 「そう言えば、警察からもすぐに帰って来れたし、罪に問われなかったんですか?」 「不可抗力(ふかこうりょく)って言ってね。警察の人たちも驚いてたよ。運転手に不可抗力が認められる事なんて十年に一度あるか無いかの珍しい事故だそうでね」  社長が説明した事故のあらましはこういう事だった。自動車専用道路の3メートルの高さの壁を乗り越えて、30代後半の女が車道に飛び降りて来た。  良太がいた運転席の真正面に突然女が飛び込んで来た形になったため、急ブレーキもよける事もできず、女は良太のトラックにはねられ即死した。  さらに異様だったのは、被害者の女が手に出刃包丁を握り締めていた事だ。女は水商売のホステスで、店の支払いのツケの事で、付き合っていた男ともめ事になり、その男が同じように自動車専用道路に飛び込んで反対側に逃げ去ったらしい。  その後を追って女も自動車専用道路に飛び出し、運悪く良太のトラックがその場に通りかかってしまった。向こう側が見えないコンクリートの壁の上から、至近距離に飛び込まれたら、どんなに運転手が注意していようと避けようがない。  トラックについていたドライブレコーダーにも、その様子ははっきり録画されていて、警察は最終的に事故は不可抗力で、良太に刑事責任はないと結論づけた。 「ただ、民事責任と言ってね。損害賠償とか慰謝料とか、そういうのは保険金で払わなきゃいけないかもしれなかったんだ」  社長はそこから急に陰鬱な口調になった。 「それで保険会社の人と俺と、君のお父さんと三人で、警察から釈放された後その足で遺族に会いにいったんだよ。被害者の身内は、ちょうど絵里子ちゃんと同じぐらいの年の女の子一人でね。いくら不可抗力と言っても、君のお父さんが運転してた車にはねられて死んだわけだし」  絵里子は思わず息を呑んだ。 「じゃあ、その女の子に責められたんですね」 「いや、こっからが一番驚いたとこでね」  社長は顔をしかめて、さらに缶コーヒーを口に含んだ。 「君のお父さんは、まあ、ボロアパートの部屋だったが、土下座して畳に額こすりつけてお詫びを言ったんだ。そしたらその女の子の口から出た言葉が『ありがとう』だったんだよ」  絵里子はペットボトルを手から落としそうになった。 「どういう事ですか、それ?」  社長はこの世の終わりを見て来たかのような表情になった。 「その子、君のお父さんに向かってこう言ったんだよ。『あなたがママを殺してくれたの? ありがとう』ってね。いや、皮肉や嫌味じゃなかったんだ、これが。心底うれしそうな顔でニコニコ笑ってそう言ったんだ。蒸し暑い日だったが、横で聞いてた俺も全身の血が凍り付くかと思ったよ」 「その子、どうしてそんな事を?」 「これは近所の人たちがこっそり教えてくれたんだがね。その死んだ女ってのは、いわゆる毒親だったらしい。言われてみれば、その女の子はガリガリに痩せてて顔に小さいが痣があった。自分の娘を虐待してたんだろうね」 「だから、あたしのお父さんの人が変わった。そういう事ですか?」 「あいつもそれ聞いて心底びびったんだろうね。自分も娘にそう思われてんじゃないかって。あ、いや、もちろん、俺は絵里子ちゃんがそんな子じゃない事は分かってるよ」  絵里子は数秒、能面のような表情で黙りこくった。そして、絞り出すような声で言った。 「そんな事があったんですか」 「ああ、それであいつも心入れ替えたんだろう。だから絵里子ちゃんは安心して受験勉強しな。入試はいつだっけ?」 「1月の下旬です。追加募集の試験が2月中旬」 「じゃあ、風邪ひかないように注意して、勉強がんばりなよ」  社長はベンチから立ち上がって、手を振ってその場を去ろうとした。数歩離れた所で振り返って、小声で絵里子に言った。 「くれぐれも、今日の話を俺から聞いたってのは、お父さんには内緒にな」 「はい、分かってます。話してくれてありがとうございました」  その後、良太は黙々と働き、絵里子は高校の入試の一次募集に見事合格した。  絵里子の卒業式が近づいた冬の朝、絵里子は夜勤明けで布団に潜り込んで寝ている良太を起こさないよう、音を殺して可燃ごみを出す準備をしていた。  ごみを大きな袋に次々と放り込み、途中でふと思いついて、古ぼけた自分用の小さな衣装ダンスの引き出しをそっと開けた。  引き出しの奥、さらに何重にも古着でくるんだ封筒を取り出す。部屋のドアの外で封筒を開け、中の一枚の便せんを取り出した。  それは、いつか父親が死んだ時、葬式の最後に出席者の前で娘として読み上げようと思って書いていた物だった。以前、知り合いの葬式に父親と出席した時にそういう光景を見て思いついた。  絵里子は便せんを裂いて、細い紙きれにし、ごみ袋の一番下に押し込んだ。 「これはもう必要ないか」  その便せんに記された文章の最後はこう結ばれていた。 「お父さん。やっと死んでくれて、ほんとうにありがとう」  絵里子はほっとしたような微笑を顔に浮かべて、ごみ置き場へと足を進めた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!

4人が本棚に入れています
本棚に追加