第九話 醜いやつ。

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私が住んでいるのは、神奈川のある駅前の大型団地。 築は40年近くなっていて、団地内には商店がいくつかあるタイプの物だ。 普段は駅からすぐに部屋に向かうため、周囲にはあまり行かなかった。 その日は離婚して数日後で、妻と子供たちは静岡の実家へと荷物を整理して引越した日だった。 ここ数年はろくに家族サービスはしていない。仕事がうまくいかず、収入も減る中、横浜辺りの飲み屋街に入り浸っていた。 妻は子供たちを連れて、いつもどこかへ出かけていた。私はどこに行っているのかは知らなかったが その日はふと 「ママ、あそこの公園に行こう」 という娘の言葉を思い出し、ふらっと歩いてみたのだった。 その公園は案外近くだった。 私が居ない日曜日に、お金に余裕が無い妻はこの公園に子供たちを連れてきたのだろうと思い、寂しい気持ちになった。 今は1月で北風が冷たい。 木製のベンチに座って、ぼっーとしていると、マフラーをして帽子を被った小さな女の子が砂場の縁に座っているのが見えた。 「今度、いつ会えるんだろう」 さっきまで一緒にいた娘の顔が、ずっと幼い顔で、その女の子と被って、残像になった。 ベンチを立ち、公園を出て、駅と反対方向へ歩き出した。誰もいない部屋にはすぐには戻りたくなかったのだ。 しばらく歩くと てんぷら山田 と書いた幕が見えた。最近開店したのだろうか、まだ綺麗な幕だ。入り口も真新しい。 「いっらしゃいませー」 若い店員の声が響く。中はそれほど広くない。木目調と赤色を使った明るい店内だ。 「お近くにお住まいですか」 真面目そうな店員は注文したビールをカウンターに出す時に私に訊いた。駅前の団地と答えると 「あー、あそこは改装されて綺麗になったんですね。昔は友達がいっぱい住んでました」 と懐かしんでした。 「ご飯大盛りサービスしますよ」 と言い、お願いすると茶碗に山盛りの白飯が出てきた。 「またお待ちしています」 落ち込んでいる私には少し鬱陶しさを感じたが、頭が低い、気持ちいい店だった。 私は過保護に育てられた。 女家庭で育った母は、私が危ない遊びをするのを嫌がって、自転車すら乗ることを反対した。 中学では運動部に入るより 「家で勉強して」 と、塾に通わせられていた。友達は少なかったが、おとなしい子か数人いた。 高校に入る頃には一人で行動することが多く、親友と言える同級生はいなかった。 人生で唯一、親友のといえば、真志村だ。 真志村は小学ニ年の時に埼玉県から転校してきた。背は小さく、おとなしいタイプだった。 「ようちゃん」 そう呼ばれていた。家が近くだったこともあり、よく遊んだのだが、四年の三月には四国へ引越した。 「ようちゃんと遊べないから寂しい」 真志村聡 彼は少し幼稚であった。知恵遅れとまではいかないが、普通学級にはギリギリ入れるくらいであった。 彼はよくいじめられていた。 給食の時間には嫌いなほうれん草を口にいっぱい入れられて、泣き叫んていたこともあった。家はというと、割と裕福なほうで、自宅に遊びに行った時は、ショーケーキや果物が出てきて、羨ましく思っていた。 築40年近く経っている団地は、改装したとはいえ、古い雰囲気はまだ残る。エレベーターのタイプや廊下、玄関ドアなどはずいぶんと旧式の物だ。 今までは部屋の中も賑やかだった。小さな子供二人が居たのだから当然だが、居なくなった今では、広く感じさえする。 「ふー」 鞄を壁に立て掛けて、仕事用のコートを脱いだ。そのままソファーに横になり、寝入ってしまった。大して酒が強くなりわりにその日は飲み過ぎた。 ずいぶん時間が経った気がした。 起きると部屋は冷たかった。それでも暖房をかける気にならず、窓を大きく開けた。この古いタイプの団地にはベランダがない。花台という、窓からせり出した、大き目の格子のような物が付いているだけだ。 いくつも並ぶ、団地とその間にある通路が見える。10階のためか、見渡せる範囲は広い。 9時を過ぎていたので、この駅前団地から家路に帰る人たちは少しまばらになっていた。 黄色で、薄暗い街灯で照らされた通路に目をやると、その街灯の下に手を膝に乗せ、足を大きく開き、縁石に座っている男が見えた。 この団地には老人も多い。平日の午後には地味な服を着た老人男性をよく見かける。じっとしていることも多い。 しかしその時の風景は少し異様だった。その男は老人ではない。10階から見ているせいか、顔を見ることは出来ず、頭頂部が見えた。 ボーダー柄のTシャツを着ているようだ。そしてそのTシャツからは腹がはみ出している。 じっと下を向いて、両手を膝に置き、その手を突っ張った状態でいる。髪は黒く、かなり伸びていて首の辺りは見えない。 明らかにおかしい。今は1月だ。この時期にあの格好で外にじっとしていられるわけがない。 「少し変わったヤツなんだろう」 そう思い、窓を閉めてカーテンを引いた。 荷物の無い、寝室のドアを開けた。ここには昨日まで妻と二人の子供が一緒に寝ていたベッドがあるが、今は毛布もきれいに畳まれてそのベッドに重ねて置いてある。 いつもなら娘のランドセルがベッドの横の小さな机の上にあるのだが、今はその両方とも無い。 そっとドアを閉めた。そのドアを開けることは当分無いだろうと思った。 浴室の電気を付け、シャワーを全開にして、服を脱ぎ始めた。古い団地はいわゆるバランス釜というヤツで風呂場も冷たいので、シャワーで温めた後でないと、この季節は入れない。 浴室には通路に面した小窓が付いている。外から人がのぞける程度だが、妻をこの窓をとても嫌がっていて、ずっと閉め切っていた。 この前の夏に息子と娘と三人で、海に遊びに行った後に入ったことを思い出した。三歳の娘は頭を洗うのをひどく嫌がって、ピンクのシャンプーハットを使った。 一人というのはこんなに寂しいものか。 いつもは鬱陶しいと感じていたことも、今日はとてもいとおしい。 風呂に入りながら、さっき居たリビングの様子を思い出した。 「テレビを点けっ放しにし、エアコンを暖房にしていたんだ」 シャワーから出ると、リビングはかなり暑くなっていた。寒がりの妻が設定温度をMAXにするからいつもこうだ。 リビングに戻るとすぐにエアコンを消した。暑がりの私はさっき閉めた窓に目をやった。 開けよう 妻が居たら、文句を言われるだろうが、今は居ない。 ふっと、さっきの男がまだあそこに居るかが、気になった。やはり変わった人間は怖いと感じる。この3号棟の住人ではあって欲しくない。 カーテンをゆっくり開けると、まずあの縁石を確認した。 あの男は居ない。 窓を少し開け、リビングのほうを向くと カン という高い音がした。 このような団地では、結構、音が響く。やはり高い建物の囲まれているので反響効果が高いのだろう。若いやつらがボードで遊ぶ、ガタンガタンという音もかなり響く。 缶を投げたな たまに遅く帰ると、さっきあの男が座っていたような縁石の上にはビールだの、焼酎だのの缶が置いてあり、そこで数人が飲んでいたのだろうと思うこともあったので、特に気にもしなかった。 スースー という風の音が窓の隅を叩いていた。 それからは、すいぶんと独りでいたような気がした。 妻と子供たちが居なくなってからは仕事にもやる気が出ず、営業成績も下がる一方だ。唯一の救いは季節が夏になっていたので、落ち込む気持ちは少しは紛れた。 その日はまたあの、てんぷら屋に行った。ランチ時は過ぎていたので客は私一人だった。 「毎日暑いですねー」 やたら元気の良い、若い店主はいつも私に話かけてきたが、あまり返事はしていない。 グラスビールを飲み、少しだけ酔っていたせいか、団地の中を歩いてみようと思った。平日の午後、人はあまり居ない。 小豆色のアスファルト舗装の小道を上がると、小さな公園に出る。あの日、妻と子供たちが出ていった冬の日もここに来たのを思い出した。それと同時にあの奇妙な男を思い出した。あの寒い日に縁石に座っていた、あの男だ。 公園を出る時には、その男が居た縁石を確認しに行く気になっていた。部屋の窓からはその縁石はよく見えていたが、男をそれ以来見てはいなかった。 小豆色のアスファルトを下り、小さな坂の途中の道路を渡ると団地の敷地に入る。 私の住んでいる棟と、その縁石のある棟は大きな広場を隔てて反対側にある。 その広場にはいつも人が多くいて、大きな木の周りに造られた木のベンチにはいつも誰かが座っている。 団地の敷地に入れば、その広場はすぐに目に入ってくる。あの縁石はその先の棟の入り口にある。 大きな木のベンチには紺のリュックを背負った中学生らしい女の子が足をぶらぶらとさせながらスマホを眺めていた。 その前を痩せたおばあさんが、買い物カゴのついた荷車のような物を押しながら横切る。 いつもの風景だ。 いや、違う。その先にある風景が違う。 あの男が見えた。以前の冬の日に10階の部屋から見えたあの男がその縁石に 座っている。 しかも恰好が全く同じように見える。白と黒のボーダーのTシャツを着ていて 手を膝に置き、下を向いている。この前見た時よりも鮮明に姿が見える。 距離は遠いが、その容貌ははっきりとわかった。 その時、私は変な感情になった。 「この男を知っている」 初めて見るはずだ。会ったことはない。それなのにその男がなぜだか知り合いに思えていた。 Tシャツから腹がはみ出している。髪を伸ばしきっていて、見るからに不健康そうで、それこそ引きこもりの類の人間だ。 私のいる位置はその縁石から100mくらいある。もう少し近づいて確認してみることにした。特に恐怖感はなかった。 いつもゆっくりと歩いている。少し近づくと、さっきの女の子がベンチから立って駅のほうへ歩き出した。 今、視界にはその男しかいない。 その男はじっと動かない。以前見た時と全く同じ格好でじっとしている。 「えー」 小さな女の子が叫ぶ声がして、駅前のスーパーのほうを見た。母親から何かもらったのだろう。嬉しそうに袋の中を覗き込んでいる。 視線を戻すと、居ない。あの男が消えていた。辺りを見廻したが、居ない。 こんな一瞬でどこにいったのだろう。少し視線をずらすとさっき見たおばあさんがその縁石近くに立っている。ボーっと何かを見ている。不思議に思ったが、気味悪いこともあり、その縁石までは行かず、自分の部屋のほうへ身体の向きを変えた。 団地の入り口は割と広い。11階建てともなると部屋数も多いのでポストの数や自転車置き場なども多い。 ただ、古い団地はどこも暗い。この団地も入り口からエレベーターのある共用部分も電灯はあるのだが、昼間でも暗い。 ポストには毎日チラシが入っている。主に高齢者に向けたような物が多い。 エレベーター前まで行くと、年配の男性がビニール袋を片手にエレベーター横の壁に手を付いている。調子でも悪いのかと、ちょっとのぞき込むと少し微笑んでこちらを見た。大丈夫という意味だろう。 エレベーターのドアが開き 「何階ですか」 と訊くと、その男は手を大きく広げて5階という合図をした。私は背中を向け5階のボタンと10階のボタンを押した。 「声が出ないのか」 年を取ると弱々しくなるものだが、痩せて、声も出ないと少し貧相な感じだ。 3階で着き、その老人は小さく会釈をして降りる時に急に振り向き、目を大きく開いて、びっくりしたような表情をした。 その表情の意味が分からず、私はそのまま「閉」ボタンを押して、10階に上がった。 エレベーターからは一番奥に私の部屋がある。通路を通る時に他の部屋の前を通るが、エレベーターのすぐ隣の部屋の風呂場の小さな窓はいつも開いている。窓は下から押して外にずらすタイプだが、その部屋はいつも少し開いている。冬でも同じだ。 私も今日はその窓を開けてきた。やはり夏は少し開けておかないとカビでも生えたら掃除するもの面倒だ。 ガタっ 大きな音がしたので後ろを振り返るとその部屋のあの窓が閉まっているのが見えた。 私は鍵を開けて部屋に入ると、肩から掛けていた鞄をリビングに置き、テレビを付けた。今日のような平日の午後はどこもワイドショーしかやっていない。しばらくしてテレビを消した。 エアコンを付けようと窓に目をやると、さっきの男のことが気になり、ソファーから立ち上がり、その縁石を見た。 ドキッとした。さっき見た老婆がこちらを見上げている。明らかにこの部屋を見ている。それも眺めているのではなく、私と目が合っているのだ。 その老婆は体の向きはその縁石に向け、両手で荷車の取っ手をしっかり掴みは首だけをこちらに向けている。目を大きく開いて、びっくりした表情だ。 さっきのエレベーターの男と同じだ。 私をその老婆の表情に慌てて目をそらした。気味が悪かったのだ。そしてカーテンを閉めて、エアコンを点けた。テレビを消していたからだろうか、昼間にも拘わらず、部屋の中はひどく静かになった。 シャワーを浴びようと思い、風呂場に行った。冬なら閉めている窓も開けていた。換気扇の無い古い団地では風呂場内も湿気がこもりやすく、そのままシャワーをしていた。 コン 玄関で小さな音が鳴った。気のせいかとは思ったが、シャワーを止めた。 コンコン 誰かが玄関ドアを叩いている。 コンコン それはとても弱々しく叩いているようだ。 「何かの勧誘か」 そう思った。いつもポストに入っているチラシの勧誘でないか。 しかし次の瞬間、私は今まで経験したことのない、ゾッとする感情に襲われた。 おかしい。 もし誰かが玄関に来ているのなら、なぜこの窓の前を通る時に気が付かなかったのだろう。窓は半分くらい開いている。この部屋はエレベーターから一番奥にある。この風呂場の前を通らなければ、玄関には行けない。 妻はそれが嫌だったのだ。窓越しに人影が写るのがとても気になり、いつもその窓を閉め切っていた。 私はシャワーを止めて、じっと気配を消すようにした。 何かのセールスなら留守と思って諦めるだろう、そして帰る時にこの半分開いた窓から確認できる。 コンコン またドアが叩かれた。 しかもその叩いている場所は下のほうだ。 子供だ。 とっさにそう思った。 しかし、子供がここに訪ねてくるわけがない。息子と娘が来たのなら、声を出すなりするはずだ。 「息子でも娘でもない」 私は確信していた。 しかし、頭の中で一つ納得がいった。子供だから窓から見えなかったのだ。 コン、コン その音は催促するかのようにゆっくりと、強く鳴った。 その時、小さく 「ようちゃん」 と聞こえた。ぞっとして全く動けなくなった。その声は聞き覚えがあった。 真志村聡だ。 もう何十年も会っていないが、その声で時間が引き戻された。 あの真志村聡だ。 いろんなことが頭をよぎった。真志村聡とは仲良くしていたが、クラスで彼をイジメるやつがいた。彼が着ていた上着を脱がせ、着たまま授業を受けていたことがあった。 真志村はもう返してもらえないのではないかと必死で、そのいじめっ子にむかっていった。泣きじゃくりながらそのジャージの袖を引っ張り、何度も何度も 「返して。脱いで」 と言っていた。 私は何も出来なかった。そのいじめっ子に逆らうことが出来なかったのだ。 「返して」 と弱々しい声で必死になる、真志村の顔がはっきりと浮かんだ。 コンコンコンコン ドアを叩く音はその時の真志村の表情と被って、よりぞっとする音に聞こえた。 目の前の小窓を見た。今、玄関には行けない。このままじっとしていれば過ぎ去ってくれるのかとも考えたが、恐ろしくて意識がそのドアにいったままだ。 小窓から覗けば、見える。 一瞬、そう思った。小窓から玄関ドアのほうを見れば、外に何が居るのかが確認できる。怖い物見たさというよりは、今起こっていることを理解したいという気持ちだった。 その時、ハッとあの映像が浮かんだ。 思い出した。私は数年前、真志村に会っていたのだ。いや、それを今、わかったのだ。 地元の千葉に家族と帰った時に近くの公園に子供と行った。まだ小さかった娘はベビーカーに乗せ、息子の手を引きながら、池のある大きな公園を三人で歩いていた。 その公園の中央の大きな木がある。 その時の光景が鮮明に浮かんだ。あの時、あの木の下のベンチにはボーダーのTシャツを着た、男が座っていた。両手を膝に置き、じっと下を見ている男だ。 ただその風景は特に気にもしていなかったので、それ以来、思い出すこともなかった。 が、今、急にその光景がとても鮮明になった。 「ようちゃん」 その男が私に向けて言ったような気がした。 そうだ、あれは真志村聡だ。 はっきりとわかった。さっき見た男、冬の日も見たあれは真志村聡だ。 そう思った瞬間、玄関ドアから気配が消えた。辺りにあった異様な空気は無くなったように感じて、玄関ドアのほうに聞き耳を立てた。 もう叩く音はしない。 ドン という音がした。隣の玄関ドアが閉まる音だ。 「あー、また忘れちゃった」 隣に住む年配女性の声がした。出掛けようとドアを閉めた後、何かを忘れたことに気が付いて独りごとを言ったのだろう。 私は小窓を閉め、風呂場を出て、玄関ドアの下のほうを見た。 「わー」 リビングの窓の外から子供たちの大きな声と、はしゃぐような声が聞こえた。その窓に行き、あの縁石に目をやると、そこには若い夫婦が座っていた。周りには子供が居て、いつも見る景色になっていた。 数日後、私は卒業した小学校へ電話した。真志村聡が今、どうしてるかを知りたかったのだ。電話だけでは詳細は教えられないとのことで、直接行って訊くことにした。 「個人情報なんで詳しいこと言えませんよ」 そう言う、教務の女性に 「転校先だけ教えてください」 と訊ねると、昔のことなのでもうわからないと言われ、結局何も知ることが出来なかった。 しかし、数か月後、地元の友人からの電話で知ったのだが、真志村はずっと引きこもりをしていて 一昨年の夏、自ら命を絶ったとのことだった。なぜそれを知ったのかというと 真志村から実家に電話があり 「久しぶりに千葉に帰ってきていて、高田公園に居る」 とのことだった。 あの夏、息子と娘と行ったのは高田公園だ。 あの時、彼ははそこに居たのかもしれない。
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