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十二・真実はそこにある
新学期早々に起きた学校への爆破予告事件のせいで延期となっていた文化祭は例年よりも二週間ほど遅れて開催された。
文化祭の開催決定から当日までが例年になく短かったこともあり、どのクラスも大がかりで凝った出し物ができない中で、私達のクラスでは縁日というテーマで来客達をもてなした。
男子も女子も浴衣やアロハを着て夏祭りらしさを演出していた。
私はみんなの前で浴衣姿になるのには少々抵抗があったので、お母さんから借りたかりゆしシャツを着て、ひたすら裏方の仕事に徹していた。
装飾したペットボトルをベニヤ板の上に立て、新聞紙や牛乳パックでこしらえたリングを投げて得点を競う輪投げは高得点ほど景品が良いと知ってみんな高難度の的を狙った結果、得点が伸び悩む人が多かった。案外地道に得点を稼いだ方が好結果に繋がるようだ。
射的は各自が自宅から持ち寄った景品を割り箸で作った輪ゴム鉄砲で当てることができればゲットできるというものだった。景品もさまざまで、いらなくなった人形やおもちゃもあればゲームソフトやアニメグッズ、アイドルのライブグッズなどといった玉石混交の景品を狙って子供だけでなく大人達も目を輝かせながら引き金を引いていた。
たらい一杯に浮かべた水ヨーヨーすくいは当初ベタすぎてそれほど売れないのではと思われていたが、子供や女子達からの人気が高く、用意していた二百個の水風船があれよあれよという間になくなってしまったのは嬉しい誤算だった。
そして教室の出口では手作りのポップコーンが入った紙コップを参加者全員に配ってお客さんを見送った。
文化祭もそろそろ終わりに近付き客足も遠のき始めた頃、ちょっと息抜きにと廊下へ出た私と舞依は不意に背後から声をかけられた。
「どう? 盛り上がってる?」
かりゆしとTシャツ姿の二人に制服姿の栗橋さんが声をかけた。
「そうね、午前中はぼちぼちだったけど、午後になってから人が増えた感じ。栗橋さんの方は?」
「私、文芸部と掛け持ちだからあまり自分のクラスの方は見てないの。まあまあってとこじゃないかしら」
栗橋さんのクラスではいくつかのグループに分かれて制作したショートムービーを上映していた。
有名な動画サイトを真似て映画のような凝った映像作品から、学校上空にドローンを飛ばしてどう見えるかと言ったものや、大盛りや激辛料理にひたすらチャレンジする企画、化学実験などの『やってみた』系や有名人のMVのコピーなど多彩な内容の動画をひたすら流していると言ったものだった。
校内を歩き疲れてちょっと一休みのつもりで立ち寄る人も多く、中には映像も見ずにずっと居眠りをしている人もいたようだ。
「これ、蓮田さんに渡して欲しいの」
そう言って彼女は文芸部誌を差し出した。
「結局、文化祭で蓮田さんに会えなくて、とっても残念」
「そうね」
私と舞依はお互いにちらっと顔を見合わせた。
「ちょっと読ませてもらってもいい?」
手にした部誌に視線を落としながら言った。
「もちろん。どうぞ」
私はパラパラとめくって紀子の短歌が載っているページを探した。
「蓮田さんのは真ん中辺りよ」
短編小説と二編の詩に続いて紀子の短歌が載っていた。そしてその隣に別の短歌が並んでいた。
「これは、私の返歌なの」
紀子の短歌はすでに一度メールで見てはいるが、実際に活字印刷されると何だかちゃんとした文芸作品に見えてしまうから不思議だ。
紀子の短歌に続いて栗橋さんの短歌を詠んだ。
ためらいと
ドキドキの中 繰り返す
あなたの背中に
掛ける言葉を
これは栗橋さんが私達の教室に来て紀子に声をかける直前の彼女の心境を描いたものだ。あの時私も紀子も栗橋さんの気迫に圧倒されていたが、実際は彼女も断られるのかもしれないという緊張感の中で勇気を振り絞って紀子に話しかけていたのだ。
「なんか、まじまじと見られると、ちょっと恥ずかしいわ」
短歌については何の知識も教養もないが、この二首の短歌がとても気に入った。
「うん、いい。とってもいいと思う」
お世辞などではなく本心から出た言葉だった。
私の熱い眼差しに栗橋さんはほんのりと顔を赤らめながら微笑んだ。
「ありがとう」
「これ、必ず紀子に渡すわね」
うん、と栗橋さんは大きくうなずいた。
「もし良かったら、白岡さんの分もあげようか? 百部作ったんだけどまだ余ってるの」
「これってタダじゃないんでしょ?」
「いいの。気にしないで」
「じゃあ、私にもいいかな?」
それまでずっと私の隣で黙って話を聞いていた舞依が突然割り込んできた。
「えぇ、喜んで。これからクラスで受付のお手伝いがあるから、その後でもいいかしら」
自分の教室に向かう栗橋さんの後ろ姿を見送った。ポニーテールはいつになくピョンピョンと軽やかに弾んでいた。
どうにかこうにか文化祭も終わり、間違いなく普段の三倍は身体を動かしたであろう私は後夜祭で盛り上がった素子達からのカラオケの誘いを断り、ヘトヘトになった身体を引きずりながら家路に就いた。
大したことはしていないと思うのだが、いつもとは違う学校の空気感に神経をすり減らされたのか、それともいつもならどこかのタイミングであるはずのお昼寝タイムがなく身体が悲鳴を上げたのか、そのどちらかだと思う。
家に帰ると、制服姿のままベッドにダイブした。このまま夕飯まで眠るつもりで枕に顔を埋めた。
一日中教室でヘビーローテーションしていたサマーソングがまだ耳に残っていた。
歌手もタイトルも知らないその曲のサビの部分がリフレインしながら次第に小さくなっていった。
真っ暗闇の中へ私の身体が無限落下をし始めた矢先、コンコンと私の部屋のドアをノックする音がした。
「ゆかり。ちょっといいかい?」
お父さんの声に、鉛の服を着込んだように重たくなった身体を無理矢理起こした。
「どうぞ」
と返事をしてみたものの、目の前はまだ薄い膜が張ったようにぼんやりとしていた。
「文化祭、結構盛り上がっていたね」
部屋に入ったお父さんの第一声だった。
「見に来てたんだ」
私は伸びをしながら大きなあくびをした。
「あぁ、ママと一緒にね。ゆかりのクラスにも行ったんだけど、ゆかりがどこにいるかわからなかったよ」
恐らく休憩で他のクラスの出し物を見に行っていたのだろう。せっかく来てくれたのに会えなかったのは私も残念だった。
「すまないね。疲れてるのに」
「ううん、いいよ。大丈夫」
毎日私が起きるよりも早く家を出て私が寝るよりも遅い時間に帰宅するお父さんに比べたら、私のこの疲労など疲労のうちには入らないだろう。
「ゆかりがこないだ言っていた例の頭痛薬の件なんだけど」
大事な話だとわかって一気に目が覚めた私はベッドの上で正座になった。
「治験薬審査会の議事録も読んだんだけど、特に不審な点は見られなかった。ごく普通の頭痛薬で間違いないみたいだ」
「そうなんだ」
「あの薬は市販薬で副作用もほとんどない割には効き目が抜群だって評判らしい。アメリカでは発売されてすぐに人気が出て、急遽ヨーロッパや日本でも売り出されたみたいだね」
紀子の記憶喪失は間違いなくあの薬のせいだと思っていた私の予想が外れて内心落胆したが、せっかく忙しい合間を縫って調べてくれたお父さんに気を遣って無理矢理口角を上げてみせた。
「絶対あの薬が怪しいと思ってたんだけどな」
ベッドの端に座るお父さんは、うん、と小さく呟いた。
「蓮田さんが記憶喪失になったのは、もっと別の理由があるのかもしれないな」
よくテレビドラマや映画などでは大抵頭を痛打した拍子に記憶喪失になってしまうケースが多くある。記憶をなくすほど頭を強くぶつけたのならば大けがをしていても不思議ではないのに、彼女の頭部には絆創膏一つない綺麗な状態だった。
「例えば、極度のストレスでも記憶障害になることはあるみたいだ」
極度のストレス、と聞いてまず思い浮かぶことと言えば頻繁に起きる頭痛かメイドカフェのアルバイトくらいしか思い浮かばなかった。もっとも彼女が私達にも言えないような苦悩に苛まれていたのならば話は別だが。
もしも紀子がそうだったとしても、倒れる前日の彼女はそんな感じではなかった。
ただずっと眠たそうにあくびを連発しただけで、心神喪失するようなストレスを抱えているようには見えなかった。
考えれば考えるほど、薬のせいで記憶喪失になったとしか思えなかった。
「ただ」
そう言ってお父さんは言葉を区切った。
「この薬はアメリカで承認、販売されたものを国内でも短期間で申請、審査がおこなわれているんだ。通常そういうのは抗がん剤みたいに患者からのニーズが高い薬のケースが多いんだけど、この薬はただの頭痛薬、鎮痛剤だからね。唯一その点だけが気になるんだ」
何の変哲もない頭痛薬が他の薬に先んじて承認、販売されているということが疑問だと言っているようだ。
そう言えば、紀子も舞依もこの薬を効き目抜群だと褒めちぎっていた。それだけ今までの薬よりも有効な成分がたくさん配合されていると言うことなのだろうか。そのこととお父さんの言っていることが結びつくのか、わからない。私にはサッパリわからない。
「ごめんな。あまり役に立てなくて」
申し訳なさそうにお父さんは肩を落とした。
「ううん、そんなことないよ。お父さんこそ忙しいのにいろいろと調べてくれてありがとう」
お父さんが謝る筋合いは全くない。むしろ気を遣わせてしまった私の方こそ申し訳ない気持ちだ。
元気なく部屋を出て行くお父さんを見送ってから、私はいそいそと出掛ける支度を始めた。
私服に着替えると家を出て、すっかり行きつけとなった場所へと向かった。
暮れなずむ街の路地裏で誘蛾灯のようにぽつんと灯る『純喫茶あみん』の看板を見たとき、一瞬家に帰ってきたときと同じような安心感すらおぼえた。
ドアベルがいつものようにカランカランと鳴り響いた。
「いらっしゃい」
カウンターのマスターがいつもと変わらない口調で私を出迎えてくれた。
そして予定調和のように、藤井はいつもの席でコーヒーを飲んでいた。
「何となく今日辺り来るんじゃないかと思っていたところです」
藤井に勧められるよりも先に私は彼の向かいの席に腰を下ろした。
「本当は電話かメールで連絡を取りたかったのですが、実は白岡さんの連絡先を知らなかったことに気付きまして」
それは意外だった。顔を合わせる機会が多かったので、すっかり連絡先を教えていた気になっていた。言われてみれば私から藤井に電話もメールもしたことがなく、コンタクトを取るときは必ずこのお店に来ていた。
そう言えば最初に彼とコンタクトを取ったのは紀子だったのを思い出した。
「ごめんなさい。そうでしたね」
私がスマホを取り出して連絡先を交換しようとしていると、メニューを持ってきたマスターが私に忠告した。
「おやめなさい。そんな中年野郎に女子高生の連絡先なんて教えちゃダメです。JKマニアに売られちゃいますよ」
藤井がそんなことをするはずがないことは百も承知だし、私の個人情報に何の値打ちもないとわかっていたから、全く気にしなかった。
私がオーダーを済ませると、藤井は少し身を乗り出して口を開いた。
「例の薬に関して、いろいろと調べたのですが……」
やはりこちらも収穫なしか、と気落ちして彼の顔を見た。
「とんでもないことがわかりました」
「えっ?」
「あの薬、『フェリツナール』はただの頭痛薬なんかじゃありません。とんでもない薬です」
いつになく藤井が真面目な顔で私に話しかけている。
「表向きは鎮痛剤ということで販売されていますが、本当の目的はそんなんじゃありません」
だから何なんだ、という言葉が喉まで出かかった。
「インターネット上で私達エスパー同士が集まるコミュニティーサイトがあるのですが、そこでこの薬のことを話題にしたところ、アメリカの友人から信じられない話を聞いたのです。あの薬は……」
そう言いかけて彼は残ったコーヒーを飲み干した。
彼がそっとカップを置くのを見ながら、私はテレビのバラエティ番組で『衝撃の結末は? CMの後!』と無駄に引っ張って煽られているときのようなイライラ感に襲われていた。
私が声を荒げそうになる寸前の絶妙なタイミングで、マスターがアイスミルクティーを持って現れた。
アイスミルクティーの隣に頼んでいないニューヨークチーズケーキが鎮座しているのを見て、思わずマスターの顔を見た。
「売れ残りです。今日中に食べないと捨ててしまうことになるので、良かったら食べちゃって下さい」
「ありがとうございます」
マスターの計らいにイライラがスゥーッと消えていった。何とも現金な奴だと自分を戒めながらも、何だかマスターになだめてもらったみたいで申し訳ない気持ちになった。
藤井はマスターにマンデリンのお代わりを頼むと再度私の方に向き直り、私がチーズケーキを頬張ったのを見届けてからゆっくりと口を開いた。
「あの薬は、エスパーを抹殺するために開発されたものです」
彼の突然の発言に、チーズケーキが喉に詰まった。慌ててストローをグラスに突き刺し、思いっきり吸い込んだ。
危うく窒息死寸前だった私は安堵の息をついてからもう一度、今度はゆっくりとアイスミルクティーを口に含んだ。
芳醇な紅茶の香りが鼻に抜け、濃厚なミルクのふくよかな味わいが喉から胃へと運ばれていくと何とも言いようのない幸福感に包まれた。
この店はコーヒーももちろんおいしいが、紅茶ももれなくおいしいと改めて実感した。
「ど、どういうことなんですか?」
「実はですね……」
そう切り出すと、彼は感情を表に出さずに努めて淡々と、入手した事実だけを伝えた。その内容は要約するとこういうものだった。
もともとこの薬は『HA-0(ゼロ)』という名前で即効性の高い鎮痛剤として開発されていたが、人体への影響を見るフェーズⅢ試験の際、一部の治験者に対して軽い記憶障害の副作用が見られたことが確認された。
この症状は一ヶ月以上続けて服用した場合に限りごく一部の者に現れる特殊ケースとしてFDA(アメリカ食品医薬品局)へ報告された。
報告を受けたFDAは重篤な副作用ではないと判断し、長期服用をしないという条件付きで医療用医薬品としての販売が許可された。
ところが、製造販売後臨床試験でも副作用の症例が報告されたが、FDAは販売停止処分を下さなかった。
当時、この薬の承認にGOサインを出すようFDAへ圧力を掛けたのが当時のアメリカ政府だという噂がリークサイトで広まり、一時期マスコミ各社も真相を追究しようと動いた時期もあったのだが、いつの間にか沈静化していったのだという。
リークサイトでの情報によると、アメリカでは冷戦時代から極秘裏にエスパーについて研究し、発掘、育成をおこない特殊部隊として戦場へ送っていたということが当時から噂されていたらしい。
彼らは機械を使わずにテレパシーで味方同士の意思疎通を図り、相手に気付かれぬようテレポテーションで敵国の建物に侵入し、重要機密の持ち出しに大きく貢献したと言われている。時には敵の部隊に発見されるも瞬間移動で難を逃れたという記録も残されているらしい。また、サイコキネシスで外部から建物内の物を動かしたりイグニッションを使って火災を起こしたり機械を故障させるなどして相手を混乱させ、相応の戦果を上げていたという。
初めのうちはエスパー達の活躍を高く評価していた政府首脳達だったが、次第に彼らに対して畏怖の念を抱くようになった。
万が一彼らが政府に反旗を翻した場合、今度は彼らの超能力が自分達にとって脅威となる。そのことに気付いた当時の大統領は冷戦終結後にエスパーを抹殺するための施策の検討を関係者へ指示した。
当然、このことはホワイトハウス内では大統領以外に知る人物はごく数名だけだったとされ、この密命は大統領の交代時にトップシークレットとして後任の大統領へ綿々と引き継がれた。
やがて冷戦も終わりを告げ、大いなる脅威が消えたのを機にエスパー部隊はその任務を解かれることになったが、その後も政府は自らにその脅威が及ばぬようその後も彼らを二十四時間体制で監視し続けた。
アメリカ国内で大規模なテロ事件が起きた時もFBI内部ではまず最初にエスパー達を嫌疑にかける意見が多数あったという。その後、テロリストからの犯行声明が出たことでその疑いは晴れたのだが、それだけエスパーを脅威だと感じていた証拠だ。
何度かエスパーの暗殺を試みたこともあったようだが、やはりどれも失敗に終わり、政府にとってはテロリスト対策と並んでエスパー対策も喫緊の課題となっていた。
そんな中で『HA-0』の開発中に偶然にもこの副作用が見つかったことは政府にも衝撃を与えた。
副作用を起こすのはなぜか必ずエスパーもしくは地元ではエスパーだと噂される人物で、一般人には全く害がないという症例報告に政府は我が意を得たりとばかりに『フェリツナール』の承認・販売を急がせたのだった。
さらに、G20などの首脳会議の場において各国の首脳へもこの薬を非公式に紹介し、エスパーからの脅威に備えよと進言していた。
だからEU諸国や日本国内でも異例のスピードで認可が下り、販売された。
アメリカにとっては自国の製薬が全世界規模で売れ、脅威となるエスパーをも駆逐することができるとあってまさに良いことずくめでしかないのだ。
ここまで一気に話した藤井は少し冷めかけたマンデリンに口を付けた。その動きに合わせるように私もチーズケーキにフォークを入れた。
チーズケーキを飲み込みながら、藤井の話を頭の中で反芻していた。
これが真実だとしたら国家レベルでエスパーを虐殺しようとしているのではないのか。いや、殺してはいないから虐殺という言葉は不適当か。ならば、何と言えば良いのか。虐待か?
「今話した内容は全て友人がリークサイトから集めてきた情報です。ですから真実と虚偽が混在しているかも知れません」
「でも、藤井さんはそれが真実だと思ったんでしょう?」
「私の中でもまだフィフティーフィフティーなのです。にわかには信じがたいという気持ちと、もし真実ならばとんでもないことだという気持ちと」
確かに海外ドラマのような虚々実々な話は私の想像を遥かに超えていった。私自身にそれが嘘なのか真実なのかを見抜く能力がないことが歯がゆくも感じた。
藤井の話が全て真実だとしたら、あの頭痛薬は本当にエスパーの存在そのものを否定する卑劣極まりない毒薬だ。
怒りにも似た感情が腹の奥から沸々と沸き上がってきた。
やっぱり紀子はあの薬のせいであんな目に遭ってしまったのだ。
それなのに藤井の反応があまりにもドライなのが私には意外だった。
『月刊レムリア』のインタビュー記事の中で「世間がエスパーの存在を認知し、エスパーがいるということがごく当たり前のように思える世の中になって欲しい」と声高に叫んでいた彼ならば、超能力者の存在そのものを否定するような薬の登場と、そのことを後押ししようとする政府の陰謀に対してもっと憤るのではないかと思っていたからだ。
「藤井さんは頭にこないんですか? これはとんでもないことじゃないですか」
藤井は黙って大きく、ゆっくりとうなずいた。
「確かに、これが事実ならばこの薬は異常としかいいようがありません」
が、と言って彼は少し間を置いた。
「仮にこの話を信じる者がいるのでしょうか? マスコミも人権団体も、ましてや我々一般市民もこの話を真面目に真実だと受け止めるでしょうか。私は誰一人いないんじゃないかと思っています」
「だって、現に私や藤井さんはエスパーじゃ」
藤井の手が私の言葉を遮った。そして悲しそうな顔で呟いた。
「『エスパーなんていたら良いと思うけどそんなのは存在しない』……みんな誰もがそう思っているんです。だからこの世にエスパーなんて者は存在しない。存在しない者に対して人権もへったくれもないんです。他人から見れば私も白岡さんもごく普通のマジシャンと高校生でしかないのです」
彼の言葉に納得がいかなかった。ならば紀子はどうなんだ? 彼女が記憶喪失になったのは疑いようのない事実だ。エスパーだったから薬の副作用で記憶を失ってしまったのではないのか?
「蓮田さんの記憶喪失と薬との因果関係を証明するのは難しいと思います。なぜならば、その薬を飲んだ人が全員必ず記憶喪失になるわけではありません。中には超能力だけが無力化されるだけで表面上何も変わらない人もいるのです。お友達の西那須野さんも薬を常用してますが、記憶喪失にはなっていないわけですよね?」
確かにその通りだ。
反論の余地がない私は振り上げた拳を下ろすしかなかった。
二人は黙り込んだまま目の前の飲み物に口を付けた。
おいしいはずのチーズケーキもミルクティーも何だか味気なく、いつもなら心地良く流れるジャズもこの時は何だか耳障りにしか聞こえなかった。
「どうすれば、エスパーの存在が世間に認められるのか……」
私の頭の中に思い浮かんだ言葉が、こぼれるように口から漏れた。
「以前はタブーとされたLGBTだって、今はその存在が一般的に知られるようになりました。我々もそのうちに認めてもらえるようになるんじゃないでしょうか。そうなることを期待したいものです」
藤井の言葉は覇気がなく、どこか他人事のようだった。
翌日、まだ藤井の言葉がわだかまりとなって残っていた私は、秋晴れの清々しい空気とは正反対にどんよりとした気分で家を出た。
それでも栗橋さんからもらった文芸部誌を手にして、紀子に会える喜びをモチベーションにして病院へ向かった。
病院に着いても気持ちの上がらない状況に、病室の前で一旦立ち止まって笑顔を作ってから何事もなかったかのように軽やかにドアをノックした。
しばらく紀子からの返事を待っていたが、いつになっても彼女の声は聞こえてこなかった。
ひょっとして寝ているのかと、そろそろとドアを開けてみたが真っ白なベッドに彼女の姿はなかった。
病室に入った私はどうしようかと逡巡し、ベッドの回りをウロウロと歩き回った。
そのまま部誌だけを置いて帰ろうとも思ったが、やっぱり自分の手で渡したかったので、しばらく中で待つことにした。
静かな病室の窓辺に立ち、外を眺めた。
病院の敷地内を歩く患者、お見舞いに来る人帰る人、こないだ私達が座った芝生、風に揺れる木々、真っ青な空に広がる高層雲。
紀子は毎日この窓から外を眺めて何を思っているのだろうか。どんな気持ちで窓の外を見ているのだろうか。毎日この部屋の中に閉じ込められてつまらないとか思わないのだろうか。
紀子が以前のようにタメ口で明るく話しかけてくれたら、と思った。
「あんた、こんな所で何やってんのよ」
もしも今私の背後からそんな口調で紀子に言われたら、驚くよりも先に泣いてしまうかもしれない。
そんな感傷にどっぷりと浸っている最中に不意にドアが開いた。
病室のドアから顔を覗かせたのは紀子ではなく、見たこともない初老の男性だった。
「あっ」
その男性は私の顔を見た途端、すぐにドアの向こうに引っ込んだ。
しかしまた姿を見せたその男性は今度は恐る恐る病室に足を踏み入れた。
「蓮田さんの病室で、間違いないですよね?」
確かめるように私の顔色を覗き込むその男性に向かって私ははい、と短く返事をした。
「あのぅ、蓮田さん?」
いいえ、と首を振って応えた。
「ですよね。入院している方にしてはお召し物がとても綺麗でしたから、まさかとは思いまして」
白髪交じりのその男性は私のお父さんよりもずっと年上に見えた。紀子の親戚なのかと思ったが、親戚の子供に苗字で呼んだりはしないだろうからやはり他人なんだろうか。
「私もさっき来たんですけど、いなかったんです」
「そうなんですか」
と言って、男性はまた病室を出て行った。
一体何者だったのだろうと訝しがっていると、再びその男性は病室に戻ってきた。
「今ナースステーションで聞いたら、どうやら精密検査中のようですね。少し時間がかかるようです」
そう言いながらゆっくりと部屋に入ってくる彼が大きなフルーツバスケットを持っていたことにその時初めて気付いた。
「あの、ひょっとして、白岡さんでしょうか?」
どうして私のことを知っているのだと内心不審に思いながらうなずくと、その男性は急に笑顔になった。
「申し遅れました。私は西那須野と言います」
「えっ?」
「いつも愛依と舞依がお世話になってます。白岡さんのことはよく舞依から聞いていますよ」
何と、この男性が舞依達のお父さんとは。私は慌ててお辞儀をした。
お辞儀をしながら、どうして舞依のお父さんが紀子に会いに来たのかと頭の片隅で考えていた。まさか舞依達の友達だからというそんな単純な理由ではないのだろう。
そんな私の邪推に気付いたのか、西那須野氏はバスケットをベッド横の小さなテーブルに置き、近くにあったパイプ椅子に腰を下ろすと自ら話し始めた。
「舞依から蓮田さんが記憶喪失になったと聞かされたとき、私はすぐにある事が原因なのではないかと思ったのです。それを確かめるために今日はやって来たのです」
ある事とは何なのか。突然、私の中で胸騒ぎがした。
「もし知っていたら教えて欲しいのですが……蓮田さんは超能力をお持ちだったそうですね?」
「はい」
私の中の鼓動が早まった。
「蓮田さんは超能力を使うと頭痛がすると言ってませんでしたか?」
「はい」
もう一段鼓動が早く、強くなった。
「ひょっとして蓮田さんは頭痛薬など飲んでませんでしたか?」
「はい。飲んでました」
「その薬は『フェリツナール』ではなかったですか?」
フェリツナール、という言葉を聞いた瞬間、私は膝から崩れ落ちそうになった。
やっぱり。
なぜそのことを彼が知っているのか? 彼は何か薬の秘密を知っているのか?
「どうしてそんなことを知ってるんですか?」
彼はためらうこともなく即座に答えた。
「『フェリツナール』の研究開発には私も関わっていたんです」
私は半分口を開けたまま、まばたきもせずにその場で固まったように動かなかった。
「正しくは市販前の『HA-0』を研究開発していた、というべきかな」
その話もリークサイトの情報と符合する。リークサイトの情報は事実だったのだ。
「その話をもっと詳しく教えてもらえますか?」
まさか国家機密にも匹敵するような情報をこんなところでこんな身近な人から知ることになろうとは思ってもいなかった。
もしかしたら紀子がこうなった真相が解明できるかもしれない。
私は彼を凝視した。彼は私がどのくらい本気で薬のことを知りたがっているのかを窺うように黙ったまま私の顔を見ていた。
彼は黙ったまま身をよじり、側にあったもう一つのパイプ椅子を私によこした。そして私がその椅子に腰掛けたのをきっかけにして口を開いた。
「あの薬は、偶然できたものなんです。最初は即効性の高い鎮痛剤を作る目的で開発をしていたのですが、フェーズⅡの途中である特定の治験者に対して物忘れや軽い記憶障害のような症例が見られました」
私は黙って小さく何度もうなずいた。
「私達は治験の責任者にそのことを報告し、治験を中止するよう進言しました。責任者も一旦は治験を中止することを決めました。ところがある日、責任者から突然治験を継続すると言われたんです」
細長い指で眼鏡の縁を軽く持ち上げた。爪は綺麗に切り揃えていた。
「その後も記憶障害の症例がいくつか出てきましたが、やはり治験は続行されました。私は何度も治験の中止を訴えましたが聞き入れてはもらえませんでした。やがて私はその治験担当から外されてしまったのです」
彼は感情を表には出さずに淡々と事実を伝えた。
彼を見ているうちに、歳はお父さんとそれほど変わらないのかもと思うようになった。確かにうちのお父さんに比べればやや猫背で顔の皺が目立ち、髪にも白いものがかなり混じってはいるが、声は張りがあって若々しかった。
綺麗に折り目の付いた綿パンに茶色のベルトと無地のシャツ、そしてダークカラーのジャケットというおじさん臭い服装が見た目の年齢を引き上げているのだろう。
「おかしいと思った私はそれから『HA-0』についての情報を集めることにしたのです。何かが裏で動いているような気がしたのです。私は記憶障害に遭った治験者一人一人について詳しく調べてみました。するととんでもないことがわかってきたのです」
「記憶障害になる人は超能力者だけって事ですか」
彼は息を止めた。そして静かに息を吐くようにゆっくりと言った。
「その通りです」
副作用についても藤井から聞かされた内容とほとんど大差なかった。リークサイトがこれほどまでに事実を伝えているということは、恐らく内通者がいたのだろうか。
「私は社内の審査会にもこのことを訴えました。この薬は特別な能力を持つ人々、いわゆるエスパーに対して甚大な影響を与えるものだ。すぐに開発を中止すべきだと……しかし私の話は何の科学的根拠もなく信憑性に欠けると一蹴されてしまいました。しかも、会社を侮辱したとして一方的に解雇を命じられたのです」
フッと、彼が笑った。私には彼が笑った理由がなんなのか一瞬わからなかった。
「その当時、向こうの大学で知り合った女性がいましてね。その彼女とはすでに結婚していて子供も産まれる予定だったんですが、私が会社をクビになったと知った彼女はショックで流産してしまい、精神的にもおかしくなってしまって、結局離婚する羽目になりました」
さっき彼が笑ったのは自嘲の意味だったのか。
「会社を辞めてすぐに日本に戻りました。しばらくして今の妻と出会い、再婚することができたのがせめてもの救いでした」
頭の中で話をまとめていた私は彼の話に何となく引っ掛かったものを感じた。
「再婚されたのって、いつ頃の話なんでしょうか?」
「いつ頃だろう。十年くらい前だったかな」
「ちょっと待って下さい……だとしたら、愛依ちゃんと舞依って」
「二人は養子です」
衝撃だった。薬の話も衝撃的だったが、それはあらかじめ心構えができていたからまだ耐えられた。ところが愛依と舞依が西那須野氏の養子だと言う話は全く想像もしていなかった分ショックが大きかった。
私は脳みそを揺すぶられたような衝撃で船酔いのようなフラフラとした気分に襲われた。
「妻と結婚してすぐに彼女が不妊症だと知ったのです。でも彼女は子供が欲しいと言って。それで私達は愛依と舞依の二人を養子として引き取ることにしたのです」
いくら無教養の私でも世間ではそういう話が当たり前にあることは知っていた。しかし、いざ自分の身近な人がそう言う境遇であるとわかると動揺してしまう。
「白岡さん」
急に名前を呼ばれて私はハッとなった。
「愛依と舞依が養子だと言うことはまだ本人には内緒にしています。だから決して公言しないで下さい」
私は力強くうなずいた。
「多分、白岡さんももう知っているかと思いますが、二人はエスパーなんです。だから私がこうして内緒にしていることも二人には気付かれているのかも知れません。でもあの子達は優しいから黙っているだけなんだと思うんです。それでも二人が成人になるまでこのことは秘密にしておきたいんです。妻とも話してそう決めたんです」
本人に秘密にしているという話を私にしたと言うことは、それだけ私のことを信頼してくれたと言うことなのか。
「わかりました。私は何も言いません」
「そうですか。ありがとう」
彼は安心したように表情を崩した。
「ごめんなさい。ずいぶんと長話をしてしまった」
そう言いながら彼は腕時計に目をやると、すくっと立ち上がった。
「蓮田さんの検査がどのくらいかかるのか聞いて来ますね。白岡さんもお友達に会えないのでは来た意味がないでしょう」
彼が出て行った病室のドアを見つめながら、今ここで知った事実を頭の中で整理した。
紀子の記憶喪失があの薬のせいだと言うこと、その薬を開発したのが西那須野氏であるということ、その西那須野氏が養子として迎えたのが愛依と舞依だということ……。
衝撃の事実をいくつも聞かされてまだ頭の中が混乱している中、ベッドの脇に置かれたフルーツバスケットを見た。
ラップのかかった籠の中にはメロン、パイナップル、マンゴー、バナナ、キウイ、オレンジ、グレープフルーツといったメジャーな果物に混じって、見たことはあるが名前のわからない果物が何個かあった。
それらの名前を何とかして思い出そうとしているうちに西那須野氏がまた病室に戻ってきた。
「白岡さん、蓮田さんの精密検査は夕方頃までかかるそうです。時間がかかりそうですのでまた日を改めて来ることにします」
「あ、そうなんですか」
私は立ち上がって彼にお辞儀をした。
「白岡さんみたいな人が愛依達のお友達で良かった。これからも二人をよろしくお願いします。仲良くしてあげてください」
そう言って彼は一礼してから病室を後にした。
彼は自分が開発した薬と紀子の記憶喪失との因果関係を確かめるために来たのだろうか。もしそうだとして、その事実を知って彼はどうするのだろうか。世間に公表して『フェリツナール』の販売を停止するよう訴えるのだろうか。
舞依も同じ薬を飲んでいることを彼は知っているのだろうか。もし知らなかったら正直に伝えるべきなのだろうか。それとも彼女との友情を壊さないためにも黙っていた方が正解なのだろうか。
答えの出ない禅問答に疲れた私は椅子を片付けてから、紀子へのメモを書き残して部屋を出た。
真実を知ったからと言って紀子は記憶喪失のままだし、私との仲が以前の状態に戻ったわけでもないという現実には変わりはなかった。良い方へ変わるだろうなんて漠然とした希望的観測すらも持てなかった。それでも、変わって欲しいという気持ちだけはまだ私の心の奥底で種火のように静かな炎を携えていた。
文化祭の一般公開が土曜日だったため、月曜日はその振替休日となった。
学校へ行くときよりも大分遅い時間に起きた私はお母さんが作ってくれたトーストと目玉焼きの朝食を済ませ、手提げバッグの中に栗橋さんから謹呈された文芸部誌がちゃんと入っているのを何度も確認してから家を出た。
平日の受付ロビーは土日とは打って変わって老若男女でごった返していた。
ロビーに設けられた椅子は全て埋まり、立ったまま順番を待っている者もいた。世の中にはこんなにもたくさんの病人やけが人に満ちあふれているのかと呆れるほどだ。
それぞれの診察室の前で自分の番が来るのを待っている患者達の間を縫うようにして紀子のいる病室を目指した。
七階はまだ見舞客の姿は少なかったが、看護師さん達が慌ただしくそれぞれの病室を出入りしていた。
病室のドアをノックするとすぐに紀子から返事があった。
私がドアを開けると、彼女はベッドの上でスマホをいじっていた。そして来訪者が私だとわかると静かに微笑んだ。その柔和な笑顔がどこか懐かしくもあり、唐突でもあった。
スマホを手にしたまま微笑む紀子に微笑みを返しながら私は声をかけた。
「おはよう。って言ってももういい時間だけど」
「ううん、おはよう。ごめんなさい。昨日も来てくれたのね」
紀子は私の顔を見ながら、何か言いたげな顔をしていた。
「何? どうしたの?」
うん、と彼女は少しはにかみながら、口の中で言葉を溜めていた。それは、なんて言おうか、と少し迷っているようにも映った。
この時の紀子の雰囲気が今までと違うように感じた。が、確証はなかった。彼女に会うのが今日で三回目だから、彼女の方も少し心を開きかけてくれたのかとその時は思った。
「自分のスマホを見てたんだけど、あちこちでたくさん白岡さんが出てくるの。メールだとか、SNSだとか。白岡さんの写真もいっぱいあるし」
紀子は暇さえあれば他愛のないショートメッセージやメールを送ってきていた。写真も意味なくパシャパシャ撮りまくっては私に送りつけていた。私も紀子へ必ず返事やコメントを送るようにしていた。
「私、白岡さんとたくさんお友達だったんだね」
そうだ。その通りだ。
「……なのに、ごめんなさい……私白岡さんにとても冷たくしてた……」
紀子の顔が曇った。紀子はちっとも悪くない。こうなってしまったのは紀子のせいなんかじゃない。仕方のないことなんだ。
だから、謝らないで。
私は無言のまま何度も何度も首を振った。
「私にとって、白岡さんはとても大事な人だったのに……」
私にとっても紀子はかけがえのない友達だ。大親友だ。
「ごめんなさい……」
もう、それ以上、謝らないで欲しい。
「紀子は悪くないよ」
耐えきれずに私は紀子を抱きしめた。
そして声を殺して泣いた。
紀子はそっと私の背中に手を回し、ずっと黙ってそのまま私が泣き止むのを待っていてくれた。
私がクラスの空気にまだ馴染めなかったときに優しく声をかけてくれたこと。
買い物だとか用事だとか理由を付けては出不精の私を外に連れ出してくれたこと。
面白いものを見つけたりすると真っ先に私にメールや電話で知らせてくれたこと。
機械オンチの私がガラケーからスマホに買い換えたときにあらゆる設定変更をしてくれたこと。
誕生日に私を人気スィーツ店へ連れて行き、『誕生日おめでとう』と書かれたプレート付きの特注パフェを奢ってくれたこと。
休みの日に私の家に泊まりに来て一晩中語り明かしたこと。
教室で初めて私に声をかけてくれたときのこと――。
いろんな思い出が次から次へと溢れるように私の脳裏に浮かんだ。
でも、紀子はそれらをもう憶えてはいない。
だからどうだと言うのだ。紀子が憶えていなくても私が憶えている。それで良いじゃないか。紀子にしてもらったたくさんの楽しい思い出を今度は私が紀子にしてあげれば良いじゃないか。
それが紀子の新しい記憶となってくれるのなら、それでいいじゃないか。
だから、もう泣く必要なんかないんだ。
そっと顔を上げた。涙に濡れた瞳の向こうに優しく微笑む紀子が見えた。
「ごめん。パジャマ濡れちゃった」
ううん、と紀子は小さく首を振った。
「天気が良いから散歩でもする?」
「ここでいい」
紀子は静かに言った。
それから私は紀子の隣に座って文芸部誌を紀子に手渡すと、紀子の作品が部誌に載るまでのいきさつについて話した。
紀子が文芸部の幽霊部員だったところから始めて、栗橋さんから作品を描いて欲しいとお願いされて少し悩んでいたこと、短歌を作って私にメールしたこと、そして栗橋さんが紀子の短歌に歌を返してくれたこと。自分の憶えている限りをできるだけ漏らさないように彼女に伝えたつもりだった。
紀子は途中で口を挟むようなこともせず、ただうなずきながら私の話を聞いていた。そして私の話が終わるとまたにっこりと笑った。
「そうだったんだ……ありがとう」
紀子は自分の短歌が載っているページにじっくりと目を落とした。
「あ、これって」
そう言って紀子は自分のスマホを取り出してメールの履歴を見た。そして送信履歴に残っていた私宛のメール本文を見て「やっぱり」と呟いた。
「そうだよ。紀子が作った短歌だよ」
「そのお返しがこっちの短歌なのね」
紀子は再び部誌の方に目を向けた。そして読み終えてから大きく深呼吸した。
「私、栗橋さんに会ってみたい。ねぇ、栗橋さんってどんな人なの?」
紀子の生き生きとした目を見るのは本当に久し振りだった。もしかしたらもう二度とこんな表情は見られないと半ば諦めかけていただけに余計に嬉しかった。
「そう言えば昨日、宝積寺さんと片岡さんが来てくれたの」
どうやら彼女の検査が終わった頃を見計らって素子とミエが見舞いに来たらしい。素子なら紀子の精密検査が終わる時間を知ることは容易なはずだ。私を誘わなかったのは私に遠慮でもしたのか。それとも午前中に私が来たことを知って無理強いしたくなかったのか。
「その時、お見舞いをもらったんだけど」
そう言いながら紀子はベッド横の引き出しから立派な紙箱を取り出した。
箱を開けると、直径二十センチ高さ十センチはあろうかと思われる高級バウムクーヘンが姿を現した。
「私だけじゃ食べきれないから、一緒に食べてくれる?」
私はベッドの端に腰掛け、紀子が切り分けてくれたバウムクーヘンを食べた。
「二人でも食べきれないかも」
バウムクーヘンは間違いなくおいしかった。が、ズシンとした食べ応えは私の胃にはキツかった。
「昨日の検査の結果はどうだったの?」
「結果が出るまでには一週間程度かかるみたい。だから、もし結果が良くても退院のはその後かも」
「早く学校へ行きたい?」
紀子はしばらく考えてから口を開いた。
「行きたい気持ちと、行きたくない気持ちが半分半分かな。学校のみんなは私のことを知ってるのに、私はみんなのこと誰も知らないから……ちょっと不安」
「大丈夫だよ。私も素子もミエも舞依も愛依ちゃんもいるし」
「うん。そうね」
そう言いながら紀子は、うふふ、と笑った。私は訳がわからずに不思議そうな顔で彼女を見た。
「だって、愛依ちゃんだけ『ちゃん』付けなんだもの」
紀子に指摘されて初めて気付いた。そう言えばそうだ。
「愛依ちゃんって、舞依と双子の姉なんだけど小さくて可愛くて、いかにも『愛依ちゃん』って感じなの」
言い訳じみた私の答えに紀子は微笑みながらうなずいた。
「早くその『愛依ちゃん』にも会ってみたいわ」
私の隣で笑う紀子の向こうにあるフルーツバスケットが眼に入った。よく見ると籠の中のフルーツは半分ほどなくなっていた。紀子が食べたのだろうか。それとも素子とミエがお裾分けでもらっていったのか。
「昨日、西那須野さんのお父さんが来てくれたみたいだったんだけど、ちょうど精密検査の最中だったからお会いできなかったの。今度西那須野さんに会ったらお礼を言わなくっちゃ」
その時私も一緒だったことを打ち明けようかどうしようか迷っていた。私が昨日ここで一緒だったと話したときに二人でどんな話をしていたのかと尋ねられて無難な返事ができる自信がなかった。
紀子には嘘はつきたくはないし、だからと言って正直に薬の話をするのも気が重い。こういう時は何も話さないのが一番なのかもしれない。
「白岡さん、良かったらフルーツ持って帰って。私もお父さんもそんなにたくさんは食べられないし、悪くなっちゃうのも申し訳ないし」
紀子に勧められて持てるだけの量の果物とバウムクーヘンの残り半分を持ち帰った。果物の中には名前のわからない果物も混じっていた。
家に帰ってから、その果物がいちじくと珍しいプラムの一種だとお母さんから教えてもらった。
夕食後のリビングで私はプラムの種を口の中で転がしながら、紀子にメールを送った。
「もらったフルーツお母さんと一緒に食べたよ。プラムとってもおいしかった! いちじくはお母さんがおいしいと言って私の分まで食べちゃいました」
間もなく紀子から返信があった。
そのメールを読みながら、紀子が一日も早く退院しますようにと祈った。
(つづく)
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