それは事故だった

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それは事故だった

 私は、人を殺したことがあります。  私がF短期大学英文科を卒業したのは、今から10年前。それからは一社会人として生きてきましたが、30歳となった今年3月に会社を退職し、4月からH大学で数学を学ぶことになりました。母の事業を手伝うことになり、どうしても必要になったからです。完全に文系の頭脳で数学は大の苦手なのですが、嫌々ながらも頑張ることにしました。  入学式の日。  社会人として就労経験のある私には、特別に提出しなければならない書類があるということで、式の前に職員室に行きました。事務員の女性に書類を渡し、処理をしてもらっている間、無言で待つのも嫌なので世間話をすることにしました。事務員の名札には「田中」と書いてあります。50歳くらいでしょうか。  「田中さんは、この大学で働いて何年になるんですか?」  「25年ですよ。もう長くお世話になっているんです」  「へえ、すごいですね!」  「小川さんは、なんでこの大学に?」  「短大の英文科を卒業しているんですけど、今まで働いていた会社を辞めて母の事業を手伝うことになったので、数学が必要になったんです。私は前の仕事を続けたかったんですけど、母の意向でどうしてもということで」  「ああ、そうなの。今、おいくつ?」  「30歳です」  「ご結婚は?」  「まだです」  「あら、そうなんだ。学費は自分で出しているの?」  「いえ、母がどうしても大学に行けというので、じゃあ学費は払ってねということで。母が出してくれました」  「えー、まだ結婚もしていなくて、事業を手伝って欲しいと言えば渋られて、学費もせびられて、お母さんかわいそうね」  「え? いやいや、初対面の田中さんにそんなこと言われるなんて。ははは」  失礼な人だなと思いましたが、私もいい大人なのでここはグッと我慢して、笑って話を終わらせようとしました。ところが、田中さんは、さらに失礼なことを言ってきたのです。  「初対面もなにも、私は誰もが思うことを代弁しているだけですよ。だってそうでしょう。小川さんは、親不孝者だと思うわ」  「は? 自分の考えが世間一般の考えだと思うのやめた方がいいと思いますよ」  「あなたよりは私の方がまともよ」  「初対面の人にそんなこと言ってくる人のどこがまともですか!」  私もこんな人の相手などしなければ良かったのですが、カッとなり、つい言葉を返してしまいました。田中さんの口調もより激しくなり、だんだんただの悪口の言い合いのようになってきました。  「学生を育てる機関で働く事務員がそんな失礼な人だなんて、大学のレベルを下げますよ」  「あなたこそ、そもそも短大卒なんでしょ? 学がないからそんな性格なのかしらね?」  「いやいや、ちゃんと社会人として生きてきたので。田中さんは、大学だからまだいいけど、普通の会社だと働けないと思いますよ。そんな空気も読めない、気遣いもできない、偏った考えの人なんか」  「あなたの方が目上の人にそんなことを言うなんて、一般常識がない証拠よね。こんな娘の親の顔が見てみたいわ」  私は、あまりにも腹が立ちすぎて言葉を返すだけでは我慢ができなくなり、田中さんを軽く突き飛ばしてしまいました。思ったより強い衝撃だったのか、田中さんはよろめきました。そして、応接用ソファーの木製の肘掛けに頭をぶつけて倒れてしまいました。  「田中さん!? 田中さん!」  急いで駆け寄りましたが、田中さんは動かなくなっていました。どうしよう。本当に、軽く突き飛ばしただけなのに……。私はパニックに陥り、体を震わせながらただただ田中さんを見下ろしていました。  どうしよう…、どうしよう…。その言葉だけが頭の中に繰り返されます。そのとき、もうひとりの事務員の女性、相良さんが小走りで近づいてきました。  「どうしたんですか?」  相良さんは、答えずに固まっている私の視線の先に目を移します。  「キャッ! 田中さん! 救急車! 救急車を呼びましょう!」  倒れている田中さんを見つけた相良さんは、そう私に言ってすぐに電話をかけ始めました。  殺すつもりはまったくなかったとはいえ、もし田中さんが亡くなったら私の今後の人生はどうなるのだろう。やはり逮捕されてしまうのだろうか。私は、遠くに相良さんの声を聞きながら、田中さんの無事よりも自分のことを考えて焦っていました。  しかし、電話を切った相良さんの言葉を聞いて気づきました。  「びっくりしたでしょう。田中さん、貧血がひどい人でね、特に朝は弱いんですよ。通勤途中の電車の中で倒れたこともあるって。今回は、たまたま倒れたところにソファーがあったからね。でも、あなたが近くにいてくれたから、私もすぐ見つけることができたし良かったわ。命が助かるといいんだけど…」  相良さんは、私が田中さんを突き飛ばした瞬間を見ていなかったようなのです。貧血か何かで勝手に倒れたと思っているようでした。  いけるかも――。私さえ、黙っていれば真実は闇の中です。私の中の悪魔が囁いてきました。これは事故。殺すつもりはなかったんだから、黙っていても罪はない。  結局田中さんは亡くなり、殺人は事故として処理され、私は何事もなかったように大学生として過ごすことになりました。
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