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「そろそろ行こっか」
食後の紅茶を飲み終えた私が言うと、智也は頷いた。
ずっと思い出に浸っているわけにもいかないし、私の実家を見に行くことが目的なのだ。
コートを着て、荷物を持ってから窓の向こうを見ると、もうすっかり夜の帳が落ちていた。
智也がお会計をしてくれている間、私はまた金色の時計を見ていた。相変わらず馬車は周り続けていた。なんとなく口元が緩んで笑みを浮かべてしまった。
入り口のほうを見ると、智也はお金を払い終えたようだった。
「ありがとうございましたー」
女性の声に、私は心の中で「こちらこそ『ありがとう』なんだけどな」と呟いた。
忘れてしまっていたことを思い出させてくれた本当にステキな時間だった。この町に、この店に来てよかった。そんなことを思いながら「ごちそうさまでした」と、私が軽く会釈をしてお店を出て行こうとしたときだった。
「またおいでね、凛花ちゃん」
電撃が、体中を走ったような感覚があった。
思わず私は振り返った。
レジの前で女性は微笑み、口元で白い手を小さく振りながら立っていた。
この人はいまなんて言った?
『凛花ちゃん』? 私の名前を呼ばなかっただろうか?
もう一度、女性の顔を見返す。私はこの人を知っている? 知っている? 知っている! この人は――、
「皐月ちゃん!」
小学生の頃の私が、セミロングの女の子と手を繋いでいる場面が、公園でブランコに二人乗りした場面が、遠足で一緒の班でお弁当を食べた場面が、いくつもの場面が頭の中でフラッシュバックした。
彼女は、私がかつて通っていた小学校の同級生だった子だった。身長も髪型も違い、お化粧もしているが、よくよく見れば、あの頃と同じ目じりのホクロがあった。
彼女は気づいてくれた。いやそれよりも、覚えてくれていた、私のことを。10年も会っていなかった私のことを。
止まることのない涙を拭うことしかできず、何を言葉にすればいいのか、私はわからなかった。滲んだ視界で皐月ちゃんの顔がはっきりと見えなかった。
「ありがとう」
何に感謝したのか私にもわからない。私はそんなありふれた言葉を絞り出すことが精いっぱいだった。
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