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私はこの味を知っている。
まだ小学生の頃だ。冬の日だ。雪が降る日だった。
私は父に連れられて、その先代のお店に行った。そこでもビーフシチューを食べたんだ。
『凛花は本当においしそうに食べるんだな』
そう言って父は、私に微笑みかけてくれた。
恥ずかしくなって目を逸らしたところにあったのが、あの金色の時計だった。ガラスケースの中で金色の馬車がくるくると回っていた。
痩せ気味の体型で、いつも頬がこけ気味で、額が少し広め、そんな父の姿が急にはっきりと蘇りはじめた。ああ、そうだ。父は、パパは、いつも私に優しく微笑んでくれていたんだ。
*
「あの時計は、先代のお店から持ってこられたものですか?」
涙を拭いながら尋ねた私の質問に女性は少し驚いた顔を見せた。
「ええ。よくおわかりで」
「ステキな時計ですね。この店の雰囲気にぴったりで」
「先代のお店にずっと飾られていたんです。主人が跡を継ぐときに『これは守り神みたいなものなんだ』と持ってきたんです」
「そうなんですね。ステキな……本当にステキな時計です」
「ありがとうございます」
女性は微笑み、お辞儀をすると「ごゆっくりどうぞ」と言って、また奥へと下がっていった。
「凛花は、この店……じゃないか、先代のお店に行ったことがあるんだね」
智也の問いに私は頷いた。
「うん。もう忘れちゃってたけどね。そう……忘れてたんだけどね」
父を亡くし、叔母に引き取られてから、私はこの町に来ることはなかった。母も父もいない、そして私が住んでいた家さえも今は誰かのものだ。この町には何もない、そんな場所に来る必要はないとずっと思っていた。
泣きながらこの町を去ったあの日の私が胸の奥を蛇のように絡まり続けていて、振り返りたいとも思っていなかった。
でも、この町には何もないなんてことはなかった。
ケーキ屋でも、カメラ屋でも、昔の私に繋がる出来事を思い出すことができたし、いまもこうしてビーフシチューの味が在りし日の父と幼い私の記憶を引き出してくれた。
この町のあちこちに記憶が眠っている。声をかけてくれるわけでもないのに、冬の帰り道から家に入ったときのように優しい空気がある。
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