あなたの馬に◎を打つ

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あなたの馬に◎を打つ

 神戸新聞杯から時が過ぎて菊花賞まで残すところ10日となった水曜日、私は坂路コースをトライ君に跨って駆け抜けていた。最後の400mは僚馬であるマダカネキンメダルとびっしりと併せ馬を行い、アタマ差で先着した。 「良い感じだね」  大河原先生は満足げな表情をしている。大河原先生は今までも有馬記念などビッグタイトルをいくつも獲っている名伯楽だ。何頭、何十頭もの名馬を目の当たりにしてきた大河原先生の表情に嘘偽りはないのだろうが、いかんせん前走の負け方が悪すぎる。 「いくらキンちゃんが仕上がり五分の状態とはいえ、先着するのは凄いなとは思います」 「そうだよな。暫く勝ちに恵まれないとはいえ去年の有馬記念2着馬だからな。それに先着したのは大したもんだよ」  大河原先生はそう仰るとジャンパーのポケットからブラックの缶コーヒーを取り出し、僕に差し出してきた。僕は軽く頭を下げて缶を開ける。頂いた苦いコーヒーが舌を通り、そして喉の奥へと流し込まれていく。 「菊花賞、乗り方は全てお前に任せる」  コーヒーが胃へと流し込まれていくように淡々と大河原先生は仰り、そして 「勝ってこい」  と一言添えられた。 「ゴホッ!」  大河原先生の言葉を前に、僕は思わずコーヒーを吐き出しそうになった。 「ビックリしたか?」  大河原先生は顔をクシャッとさせて笑った。僕は無言で頷く。 「まぁ確かにあれだけの着差を見せつけられたら勝ち目がなさそうにも感じるわな」 「はい。しかもあの2頭に加えてセントライト記念を勝ったマッスルトウコンも出てきますから」  僕はそう吐き出した。セントライト記念が行われたのは神戸新聞杯の1週間前。僕はそれを検量室内に流れていた映像でしか見ていない。だけど、300mちょっとしかない最後の直線だけで最後方から全馬をゴボウ抜きして先頭で駆け抜けるその勝ち方はバケモノのようなものだった。豪快なその勝ち方を前に他の先輩騎手も調教師の先生たちもため息を漏らしていた。マッスルトウコンは日本ダービーこそ2着に終わったものの春に皐月賞を制しており、その能力がまだ健在であることを示した形だ。 「確かにマッスルトウコンも強いな。だけど、私はトライ君が勝てると本気で思っているぞ」  大河原先生はそう答えた。表情は穏やかだけど、声にはまっすぐ芯が通っているのがわかる。 「竹之内君は、体内時計に自信はあるかい?」  大河原先生が突如尋ねてきた。 「まぁ、それなりには……」  僕がそう答えると、大河原先生は再び笑ってみせた。 「なら良かった。こっちは万全に仕上げる。だから、思い切って乗ってこい。勝てないという思い込みを捨てて全力で考え抜けば、勝てる道筋は見えるはずだ。期待しているぞ」  大河原先生はそう言って僕の胸に拳を当てると、その場を立ち去っていった。  勝てないという思い込みを捨てろ……。  先生はそう仰る。でも思い込みを捨てるには、17mの壁は厚すぎる。
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