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「竹之内さん」
僕が思い悩んでいたところで、背後から声がした。振り向くとそこにはスーツの上にウインドブレーカーを羽織った男の姿があった。
「あ、坂本さん。おはようございます」
坂本さんは競馬専門紙「ギャロップホース」の記者をしている。坂本はコラム「大穴探券」を担当しており、かなり独特な切り口でレースを解析。低評価の穴馬を軸とした予想記事を著している。今年に入ってからはかなり好調らしく、「坂本 馬単◎▲16,920円的中!」などという文字がギャロップホースの一面に踊ることも多い。
「さっきの坂路調教ではオープン馬相手に堂々の先着。トライアンドエラーの調子は良さそうですね」
坂本さんは私にそう尋ねてきた。
「確かに調子はいいですけどね、相手が相手だけに強気なことは言えません」
僕はそう答える。辺りを見回すと、コレデイイノカやキノウノナイトメアの陣営の周りには記者やカメラマンが詰めかけている。僕の周りにいるのは坂本さんだけだ。やっぱり世間の注目を集めているのは、あの2頭だ。
「そうかなぁ。僕は十分勝負になると思うけど」
「そうですか……ありがとうございます」
「あっ!今の僕の発言リップサービスだと思ったでしょう?」
坂本さんはニヤリと笑いながらそう返してきた。勿論、図星だ。
「リップサービスでも何でもないですからね。熱発とか急な体調不良でも無い限り、僕はあなたの馬に◎を打つつもりですから」
坂本さんはそう言い切る。かりにも競馬専門紙の記者だ。あの大差負けのシーンは見ているはずなのだが……。
「競馬は水モノであり、筋書きの無いドラマなんですよ。だいぶ古い話ですけど、引退レースの有馬記念で9馬身ぶっちぎって勝ったシンボリクリスエスは、前走のジャパンカップで9馬身以上ぶっちぎられて負けてますからね。だから、神戸新聞杯で大敗したからといって菊花賞でも負けるとは限りません」
坂本さんはそう力説してきた。
「竹之内さんは、歴史はお好きですか?」
「え?」
急な問いかけを前に、僕の口から声が飛び出した。
「歴史は教えてくれるんですよ。勝利は偶然で敗北は必然。勝利に形は無いけれど、負けるパターンは大体決まっているんだって」
「……そうなんですか?」
そう訊き返すと、坂本さんは頷いた。
「負けるパターンのほとんどは情報不足、慢心、思い込み、この3つのどれかから来るものです。たとえば桶狭間の戦い。あれは今川義元が織田信長の型破りな性格を知らず、大きな兵力差があるのだからまさか負けることなどないだろうと考え、そして雨の日なのだからまさか戦など起こるまいと思い込んだ。情報不足、慢心、思い込み、今川義元はこの3つのせいで負けたんです」
勝てないという思い込みを捨てろーー僕は坂本さんの話を聞きながら、大河原先生の言葉を思い出していた。
「トライアンドエラーは菊の大輪を開かせる力を持っている。私はそう信じています。期待していますよ」
坂本さんはそう告げると、ウッドチップコースの方へと向かっていった。
17mの壁の突破口なんて、本当にあるのだろうか?
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