菊の大輪を咲かすのは?

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菊の大輪を咲かすのは?

 レース発走直前。スターターが台の上に登って赤い旗を振る。ファンファーレの音が流れるとともに歓声と拍手が場内を包み込んだ。トライ君はすでにゲートに入っており、静かに出走のときを待っている。GⅠの舞台は独特だ。大きな音に驚いて動揺してしまったりうるさくなってしまう馬も多い中、本当に賢く、肝のすわった馬だと思う。最後に16番のマッスルトウコンがゲートインしたところで、扉が開いた。  僕はトライ君の手綱をしごき、前へ、前へと出る。最初のコーナーである第3コーナーを回り終えたとき、僕は先頭を走っていた。後続との差は1馬身から2馬身といったところ。ここはまだ仕掛けてはいけないところだ。というのも、ここから少し過ぎたところから第4コーナーへ向けて京都競馬場名物の下り坂が設けられているからだ。ここでスピードの調節を間違えるとレース全体に影響を及ぼしてしまう。抑えて下る、これが鉄則なのだ。慎重に、慎重に2つのコーナーを通過したところで、正面のスタンドにいる5万人の大歓声が僕たちを出迎えた。  僕の体内時計では1000mを過ぎたところでのタイムはおよそ62秒といったところか。予定通りのタイムだ。ここで僕はトライ君の手綱を数回しごいた。トライ君は僕に対して元気よく「はい」と返事するかのようにギアをちょっとだけ上げた。徐々に後続の足音が小さくなっていく。第1コーナーに差し掛かる頃には2番手のトリプルターボとの差は8馬身近くにまで開いていた。僕達は息を入れながらコーナーのギリギリのところを回り、アップダウンの少ないコースを淡々と走り抜けていく。第2コーナーを暫く過ぎたところで、僕は後ろを振り返った。後続との差はおよそ10馬身に広がっている。僕はトライ君の体力を温存すべく手綱を抑えた。トライ君はこの指示にもすぐに応え、ほんの少しだけ速度を落とす。後続との差を十分すぎるほど保ったまま向正面を淡々と進んでいくと、目の前に上り坂が待ち構えていた。この第3コーナーにまでかけて続く上り坂を駆け上がり、そして先ほど通った第4コーナーからの下り坂を降りて最後の直線を抜ければ栄光のゴールが待っている。 ーーそろそろ2分だな……。  坂を登り始めたところで僕の体内時計がそう知らせてきた。涼しい秋風を切り真緑に生えるターフを蹴り上げながら一歩、また一歩と坂を登り、残り1,000メートルの標識を過ぎる。おそらく通過タイムは2分6秒くらいだ。 ーーこのまま!このままっ!!  僕はそう念じながら、トライ君とともに第4コーナーの坂を駆け降りて行った。  最後の直線を迎えたとき、スタンドからは大歓声が飛んだ。しかし、それに混じって 「うわぁ……」 「届かない……」  という悲鳴にも似た声も聞こえてくる。残り200mを切ったところで漸く後続馬の足音が聞こえ始めてきた。僕は手綱をしごきながらトライ君の体に2発、3発とステッキを入れる。トライ君は最後の力を振り絞り、ストライドをさらに大きくした。 「差せ!差せ!!」  観客から怒号が飛ぶ。 ーー来ないでくれ!来ないでくれ!!  僕はその怒号を聴きながらそう念じていた。残り100m。外から物凄い足音が聞こえてきた。 「トウコン!トウコン!!」  観客の声で分かった。大外からマッスルトウコンが差してきているのだ。僕はもう一発トライ君に鞭を入れる。するとトライ君はさらに重心を低くし、鼻面でゴール板をとらえた。  僕達はマッスルトウコンの追撃を1馬身だけ凌ぎ切っていた。1着に3番、勝ち時計の表示に3分5秒3の文字が光る。大舞台を制し、菊の大輪をひらかせた瞬間だった。
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