マリに捧ぐ

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この物語は、フィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありません。 僕がマリに会ったのは21歳のときだった。僕にとっては、彼女との別れの瞬間はいつまでも悲しみと苦痛を伴う思い出となっている。 その彼女と再び出会うまでには約17年の時が必要だった。 まず第一に、僕たちはお互いに結婚しているという事実がある。第二の理由については、僕には明確ではないが、おそらく彼女は僕と会いたくなかったのだと思う。そのため、僕とマリの関係は明らかに終わってしまったと言える。 というのも出会った当時僕たちはニューヨークに住んでいた。彼女はそのあとも住み続けて、この何年かのうちに日本に帰ってきて、再び僕たちは関わりを持つことになったわけだ。 僕はもちろん彼女のことが好きだけど、僕に対する彼女の思いについては、この点については、僕には何もわからない 今のマリと、当時のマリと違うとこがある。 それは、彼女は母親になっていた。が、旦那と離婚し、向こうの弁護士が自分を騙して子供たちを奪っていった。そんなような口ぶりで彼女は言葉をつぎ、かたがついた別れのごたごたと、一人になった不安で気持ちは複雑に絡み合って、ゆきばのない虚しさだけがのこり悲しみにくれていたのではないだろうか。どこを向いても自分がまったくひとりぼっちだということしか感じられなかったのだと思う。 僕の方は、まだ何かを探し求めていて、日々はただだらだらと流れていき、年をとるということ以外、何もその跡に残して行かない月日の連続と化していた。だらしない生き方で、もう少ししっかりと人生を見詰めなければならないとおもうのだが、堕落、退廃、絶望感が、常につきまとった。 「ねえ、今仕事何してるの?」 「バイト」 「奥さんは?」 「仕事してるよ」 「なんの仕事?」 「銀行で働いてるんじゃないのかなあ……」 「銀行で働いてるんじゃないのかなあ……、なの?」とマリが聞き返した。 「銀行員だよ」と僕は言った。 「そうなんだ……」 「ねえ」 「うん?」 「会おうよ」と僕は言った。 マリは聞き流した。 その質問は以前にもしたことがあったけど、はぐらかされた。多分、駄目だろうと思っていたから気軽に誘ってみた。 「会いたくないの?」 「そんなことないわ」 「ほんとに?」 「うん、こうやって話すだけでも、嬉しいし」 「……」一瞬思考が停止した。 男と女なんて、会いたい気持ちがあれば、会うだろ。会おうとしないのは、会いたくないというのと同じだ。 「いいじゃん。会おうよ、ねえ」と僕は言って、窺ってみた。けど彼女の方は何も言わない。 そして話し始める。「私、最近髪の毛切ったんだよ……ショートにしたの」 「どのくらい切ったの?」僕はちょっとだけ話しの腰を折られた気がした。 「けっこうばっさり切った」 「どう?」 彼女は笑って答えた。「可愛いかも」 実際に彼女に会ったのはそれから数年後のことだから髪は伸びていた。僕たちは共通の世界で生きているのではなくて、分不相応というか、彼女の世界の中で与えたいと思う場所を僕に分けてくれているだけだった。 だから、彼女の方からは電話はかけてこなかった。なのでまた僕からマリに電話をして、それで僕たちは再び会うことになったのだ。 待ち合わせ場所は渋谷のハチ公の前に四時。 僕はその日、ヤンキースの帽子を被って彼女に会いに行った。電車に乗り、窓の外を見つめ、昔は、彼女のことだけを考えていたことがあったのを思い出す。あの頃はマリと毎晩のように会っていた。なのにどうして、あの状態のまま、友達のままじゃなくて、離ればなれになってしまたんだろう。苦いものがこみあげる。 5分前に僕は待ち合わせしたハチ公の前に到着した。 改札口からはどんどん人が出てくる。そのなかにまじって、マリがひとりで歩いてくるのが見える。こみあった人々の間を縫って、近づいてくるにつれ、彼女の姿がはっきり見えてきた。 「元気だった?」僕は明るく笑い、彼女は顔をほころばせながら「本当に久しぶりだね」そう言って、僕の傍にやって来た。 腕時計をした手で、髪をかきあげ僕を見ながら言った。 「久しぶりだね、ぜんぜん変わらないね」 「そう?」と、答えたけど、僕は38歳という年齢にもかかわらず、まるで高校生みたいに、まだ女の尻を追いかけているたぐいの人間で、はじめて会った人は、たいてい僕の実年齢を聞けば驚いた。 僕たちは、スクランブル交差点の方へと歩きだし、そして街を歩き、喫茶店に入ってコーヒーを飲んだ。 テーブル越しに座っているマリは僕より一つしたで37歳だった。30代の彼女は、20代のころとはちがう美しさを身につけ魅力的な女になっていた。もしも横に子供がいたら、理想的な母親だろう。不思議なことに、僕は若々しく咲き誇る花のように美しかったマリよりも、今の方が好きだった。これほどの魅力を、僕が彼女に感じたのははじめてだった。 マリと出会った頃、彼女が持っていたファッション誌を2人で見ながら、どういう子がタイプか聞かれ、藤原紀香を指さしたら、おばさんぽい子が好きなんだね、って言われたその時のことを思い出した。その頃は、まだ藤原紀香はそんなに有名ではなかったと思う。 そんなことに思いをめぐらしていると、「顔色悪いね、ひょっとしてまだクスリのんでるの?」マリが聞いてくる。 僕は、風邪薬を毎日大量に飲んでいた時期があった。そうすれば、そのうち死ねるんじゃないかと思ってさ。 「飲んでないよ、あんなのいくら飲んでも死ねないから」 マリが目を伏せて笑いながら言った。   「本当だね、なかなか死ねないね」 そのとき、店の中でかかっていた音楽が終わって次の曲がかかった。 カーペンターズの『イエスタデイ・ワンスモアー』 黙って視線を落としていたマリが僕をつくづく眺めて口を開いた。 「昔よく聞いたね、懐かしいね」 二人とも曲が終わるまで無言だった。 その一方で、向こうの席にいるセーターを着た大柄な男と目が合う。男はそこに座ってちらっとこっちを盗み見ているが、僕を見ているわけではなく、視線はマリにそそがれている。 漠然とした幸福感に包まれながら、僕はその男を眺めた。 ウェイトレスが水を注ぎにくる。 コーヒーを飲みほしトイレに立ち、僕は扉に向かって歩いていく。小便をしてると、さっきのセーターを着た男が後から入ってくる。便器で僕と並ぶ、ペニスを出して用をし、顔をよせて話しかけてきた。 「君のお母さん綺麗だね。うらやましいなあー」 あっけにとられた僕は、とりあえず愛想笑いして、手を洗って出てきた。 席へつくなりマリに言った。「今、お母さん綺麗だねって言われたんだけど」 マリは下を向いて笑い、顔をあげて目をそらした。 ニューヨークにいたときは妹って思っていたのに、今じゃお母さんか。 マリは、けして嬉しそうではなかった。何かやりきれなきれないほど悲しいことが起こっているという空気に包まれて、しばらく何かに思いをめぐらせているようだった。それというのも彼女の子供たちはニューヨークにいるからだ。彼女はあらためてため息をつき、僕の方はそのことには触れず、そうした反応を周囲がしているのがむしろ嬉しかった。 だから、マリのことをお母さんって呼びたいというばかげた考えがちらっと浮かんだ。マリと電話で話しているときなんかも、そんな気がした。 セーターを着た男はしばらくのあいだ、新聞を見ていたが、やがて会計を済ませると、喫茶店を出て行く。 わずかに僕は、男に会釈した。 そのあと僕たちも、とくにお腹が空いていたわけではなかったが、どこかで、ご飯でもたべようか、そう言って出てきた。土曜日の夕方のせいもあって、通りは相変わらず人で溢れかえっていた。 道玄坂の方へ向かって歩き、細い路地を右に曲がって、台湾料理の店に入った。料理は最高だった。 食事が終わって、外に出た時には、8時少し前だった。自分でも信じられないほど酔ってしまった。 僕たちは、さわやかな秋の夜の中にすべりだした。 いろいろ見て回って、通りを歩いていくうちにラブホのネオンサインが目立ちはじめ、誰かに追跡されてる気になって、何回か後ろを振り返った。 で、たとえばそこでマリの手を繋げば、なんとなくホテルに入れるかどうかぐらいわかった。 いまさら好きだなんて言わなくても、僕は昔彼女に告白してフラれたわけだし。 「すがすがしい、きれいな夜ね。少し飲み過ぎたかしら」そう言ってマリが夜空をみながら歩いた。 僕は遠まわしにセックスを求めるように聞いた。「じゃあ休む?」 マリは呆れかえったとでも言うよに短く笑って「えーっ?なんでえ?」そんな心情について、困っているような顔で僕を眺めていた。 「いーじゃん」と、思いがけず、いきなり大胆なことがしてみたくなり、僕は明かり全体が膨らんで見える看板が出ているラブホテルのひとつにマリを引っ張っていき入って行った。 自分の大胆さに思わず心臓が飛びだしそうだった。そのあとどうなるかわからなかったが、僕はマリを導いて、部屋に入った。部屋に入ってすぐほっそりとした華奢な身体を背後から抱いたまま、手で乳房をつかみ、頬を彼女の髪にすりつけていた。もう僕の考えていることといったら、そんなもんだ。彼女は僕に抱きすくめられて、ダメ、と言った。僕が両手を引き寄せ、スカートの裾をまくりあげ、下着の中へ手を入れて、首から口元へと唇を移動させると、お願い放してと身体をねじって逃れようとしながらも、しぶしぶ承知してくれた。 今、僕は天井のライトが注ぎこんでいるベッドに仰向けになっている。聞こえるのはマリがシャワーを浴びてる音だけだった。一瞬、半分寝ているような感じで、自分がどこにいるのかわからなかった。 くぐもるようなシャワーの音が聞こえなくなり、ドアが開き、マリがタオル地のガウンを着て出てきた。僕は起き上がって息をのんだ。その美しさの前に釘づけになった。 「本当にいいの?」マリは言った。「あとで後悔するんじゃない?」 心の中で彼女のことばが繰り返された。あとで後悔するんじゃない?僕はベッドからゆっくりと立ちあがって「しないよ」と声の調子をおさえ言って、浴室に入っていった。ノブを回してしばらく熱い湯の下に立ってシャワーを浴び、身体をガウンで包み、半分勃起した身体でマリがいるベッドに寄って行った。 もしあの時マリに出会わなければ、僕らはいつまでも交わることのない二人だった。もしちがうかたちでその辺で会っていても、僕にはどうこうしようにも手も足も出せない女だった。僕がマリに会ったのも、まさに偶然でしかない。 しかし、それが運命というやつかもしれない。 その偶然の出会いから好意を抱き、告白して振られ、17年の歳月を経て再び出会った。 ベッドに入ると、マリはあまりに美しく、僕の長い間押さえつけられてきた欲望が燃えあがった。最初は軽く、だんだんと激しさを増していくキスが続き、形のいい乳房を夢中で吸ったり噛んだりした。照れ臭いなんて気持ちはとうに吹き飛んで、唇と舌でマリの胸を味わった。彼女はあえぎ、僕の股間を指であやしてくる。僕もマリと同じように、もう我慢できないでいる。そしてさらに激しく求め合って、やがて、マリの全身は僕の身体に溶け込み、腰が誘惑するように動き始める。僕は熱烈にマリを愛し、本能的な欲求に我をわすれた。声ひとつ出せなかった。
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