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俺には忘れられないピアノの音色があった。
「あぁこれ? 妹が弾いてるの。今ピアノのレッスンで習っててね。逢うの初めてだよね。」
もう付き合って何年も経つ彼女の家に久しぶりにお邪魔した。
すると彼女の、その小学生の妹が、リビングの壁側に置かれたピアノに向かって座っている。
慣れた手付きでソナチネの旋律を奏でていた。
音楽は人の記憶を刺激するという。
ピンと背筋を立てて鍵盤に向かうその幼くも懸命な姿を見て、俺は懐かしい人を連想した。
俺が野球を始めるきっかけをくれた人だった。小学生の頃に好きになった、同じクラスの気の強い女の子。
今では俺も22歳。どんな人になっているだろうか。
今付き合ってる彼女の家に来ておいて何を回想していると言われるかもしれない。
しかし、眼前にいるその妹が、君と背格好が同じ女の子が、
───全く同じソナチネのメロディーを鳴らしていたら?
「……妹さん上手いね。結構ピアノ歴長い? 」
「小学校に入学して始めたから、もう結構長い期間、こうやって晩ご飯まで練習してるね」
彼女に促されて座った食卓のテーブルに肘をついて、椅子に軽く腰かけてぼうっと光景を眺めていた。窓から吹き込む秋の夜風に晒されながら。
窮地に立たされた俺は現実逃避をしたかったのかもしれない。
過去の俺に、過去の人に、
問いかけたくて仕方がなかった。
どうしてこうなってしまったのだ?、と。
すると、その妹は突然演奏を辞めて、
長椅子からぴょんと飛び降りて、俺達の元に来て無邪気に尋ねたのだ。
「ねえね。野球の亮ちん?」
「そう、亮ちん」
「なんで昨日、名前呼ばれなかったの?
配信まで見て楽しみにしてたのに。学校の友達にも自慢したんだよ。
お姉ちゃんのカレシがプロ野球選手になるって。」
彼女は慌てて椅子から立ち上がり、妹の口を塞いだけど、もう遅かった。
「亮ちんって嘘つき。」
彼女はしゃがんで「嘘つきじゃないよ、スカウトの人の見る目がなかったんだよ」と妹の洋服の裾を持ち、なだめていた。
首を何度も振っていた。
俺のほうはしばらく見なかった。
俺はその瞬間、小学生のときからの人生を懐古した。
初恋の君は大好きだったピアノを辞めるその日、
放課後の教室で、不甲斐ない気持ちも抱えて泣きながらもその曲を奏でて、
選ばれた俺の背中を押してくれた。
そうして選ばれて強豪校の中学に進学した俺は、
ずっと選ばれることだけを生き甲斐に、高校、大学、と練習を重ねてきた。
なのに、肝心のその日に、俺はどのプロ野球球団からも選ばれなかった。
しゃがんで彼女の妹と目線を合わせて、なんとか言葉を絞り出した。
「……ごめんね、」
この十年余りの月日は何だったのだろうか。
小学生の君に背中を押されて踏み入れた野球の世界。その歳月の長さを思った。
いつの間にか俺は、食卓の椅子に座らされていた。
野球部の練習をサボってしまった俺の気を紛らわそうと、彼女が手料理を振る舞うと家に呼んでくれたのだ。でも今はその優しさが全て苦しかった。
豪華な食事を前にして、湯飲みの茶に映る自分とにらめっこしていることに気づいた。
「ごめん、ちょっと、」
俺は喉元から出かかった言葉を呑み込んで、
荷物をまとめると、夜の街に駆け出した。
無茶苦茶だって分かってる。
でも現実の人に慰められるぐらいなら、記憶と心中したかったのだ。
夜長の候、十月のとある夜から数日間、
俺は消えた。
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