第2章 銀の雨

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第2章 銀の雨

 夏には珍しく、朝方から降り出した霧のような雨が、辺りを白銀にけぶらせていた。  カイは防水ジャケットのフードを目深に引き下げ、濡れて黒く光る岩壁を睨み上げた。冷たい水滴がぽたぽたと視界の端を滴っていく。  カイとレイヴィンは朝早くに再び山に入った。目指すのはもちろん、昨日子竜に遭遇した地点だ。  雨の登山は困難を極めたが、天候の回復を待つ余裕はない。カイは何度も泥濘に足を取られ、レイヴィンに引き起こされて山道を進んだ。  隣りで黙って歩を進めてきたレイヴィンが、気遣うようにカイをかえり見た。  「岩登りは、無理ではないが、かなりキツイぞ」  「想定していたことだ。今度は準備もある」  「途中でダメだと思ったら、早めに言え。お前は山に慣れてないだろう」  固く頷くカイに軽く溜息をつき、レイヴィンは黙々と準備を進めた。  雨に濡れないよう荷物をまとめてカバーをかけ、身軽になった身体にハーネスをつける。さらに、岩登り用のロープや杭、ハンマー、落下防止のためのギアを次々と装着していく。その後、カイにも同じような装備を手早く巻きつけた。  昨夜の記憶力が何度も甦る。耳元に落ちる激しい吐息。身体に巻きつく力強い腕。汗を滲ませ、苦しげに歪む精悍な顔。脈動する熱い雄芯。  カイは激しい羞恥に襲われ、その度に本日のミッションに集中しようとする。  忘れるんだ。 込み上げてくる気持ちを必死で握りつぶす。  忘れてしまえ。たまたま知り合った現地の男と、ちょっとした息抜きをしただけじゃないか。あの欲に濡れた視線も、心を震わすような甘い言葉も、竜探しの興奮の合間にみた淡い夢のようなものだ。  しなやかな狩人は、この緑深い辺境の地にこそ相応しい。王都の中で息も絶え絶えな自分には、とうてい似合わない。  「カイ、準備はいいか?」  「ああ、宜しく頼む」  「任せろ」  レイヴィンが息だけで笑った。  先頭に立った長身の男が、岸壁を登りながら岩の裂け目に杭を打ち込んでいく。  がっしりした腰回りと太腿にはハーネスが巻かれ、ロープと金具を装備している。この金具を杭に取り付け、さらにロープを引っ掛けて岩登りのルートを確保する。ロープには落下防止のギアも付いており、万が一足を滑らせても打ち込んだ杭が体重を支える仕組みになっていた。    カイは地表に立ち、リズミカルに上下する広い背中を見上げていた。レイヴィンは躊躇なく岩を登る。男の腕や足捌きに迷いはない。まるで正しいルートが見えているかのようだ。  難なく岩棚にたどり着いたレイヴィンは、足場を固め、今度は上方でロープを握りながらカイを誘導し始めた。  レイヴィンに習った要領で、カイはアッセンダーとあぶみをロープに取り付け、準備を整えた。  腕を精一杯に伸ばして頭上のロープを手繰り寄せ、アッセンダーを巻き上げる。同時に右脚であぶみを踏み込み、もう片方の腕でハーネス側のロープを素早く引き上げる。すると、身体がぐっと持ち上がって、ロープの数十センチ上部で固定された。  腕が震え、足が強張る。カイは必死で息を整え、先にいる男の存在を意識しながら、少しずつロープを登っていった。  岩棚に手が届く位置までくると、一気に身体が引き上げられた。  「調子はどうだ?」  「・・・問題ない」  背後から抱え込まれ、岩の上に立たされる。腕はなかなか離れていかず、カイはレイヴィンの体温に包まれた。問題なんてありすぎなのだが、他に何と答えられよう。顔が熱い。  レイヴィンがふっと笑い、名残り惜しそうにカイの両肩をぽんと叩いて体を離した。  岩棚にて休息がてら、2人は簡易食をかじる。ボソボソと粉っぽい塊を水で流し込み、カイは上空を眺めた。  雨と森林の匂いに混じって、強い獣の気配が大気に漂う。紛れもない竜の匂いだ。目を瞑ると、心が浮き立つようなキラキラした光が弾む。  「カイ、何か感じるか?」  「ああ、竜の子が久しぶりの雨を喜んでいるみたいだ」  「雨が嬉しいのか?」  「うん、竜が歌ってる」  耳を澄ますと、風に混じって吹笛のような細く震える音がする。ピィーヒュルルと高低をつけ、歓喜の歌が紡がれる。  カイは音に集中して、意識を飛ばした。煌めく光を追いかけ、歌声に合わせて上へと登っていく。  白い光の中、縦に瞳孔が裂けた赤い眸が、まっすぐにカイを見返した。  『また会えたね、子竜』  ピィと一際高く鳴き、子竜はぶるりと身体を震わした。穴倉から上半身を乗り出し、柔らかな飛膜で覆われた翅を開いたり閉じたりして、霧雨を身体に受けている。  『お前の親に会いたいんだ。呼んでくれるかい』  子竜は、丸い眸を好奇心で閃かせた。たしたしと前足を踏みならしたあと、鼻先を上空に突き上げる。白銀の鱗がきらめく胸元を震わせ、細い咆哮を吐き出した。  オォォォーン  咆哮は、塔のように連なる灰色の雲を駆け上っていく。  『こい、灰銀竜』  空の高層が明るく輝いた。幾層にも重なる雲の先端が黄金に光り、星のような大小の光の粒が降ってくる。光の粒があたった場所から、雲がうっすら晴れて行った。  ゆらりと雲の波間を灰色の影がよぎった。影はゆったりと身体をくねらせ、白く輝き出した雲の間を回遊するように下ってきた。
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