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第1章 不穏 1
王都研究所長のヨハンは、閣議室の窓辺でひそかに溜息をついた。いきなり朝方に叩き起こされ、詳しい説明もないまま直ぐ駆けつけるよう命を受けた。それからニ日、宰相や大臣らとともにヨハンは閣議室に半ば閉じ込められている。
もっぱらの懸案は、現在北の辺境にいる調査団からの報告内容だった。調査に同行しているヴォンカルト議員から、野生の竜、しかも灰銀竜らしい幼生体を発見したと第一報が入ったのだ。目視確認こそされていないが、成体の親も近くにいる可能性が高い。予想もしていなかった事態に、まさに王都中枢は右往左往していた。
ここ二日、さすがに仮眠はとったが、家に着替えに戻ることも許されず、食事もままならない。ヨハンだけでなく、他の面々にも疲れが見え始めていた。唯一元気なのは、初老であるはずの宰相と鍛練をつんだ王立騎士団長だけである。充分な休息をしていないのは同じな筈だが、二人は正気に溢れ、髪一筋さえ乱れていなかった。
ーーああ、カイ。君はとうとう、大当たりを引きあててしまったな・・・。
さて、どうしたものか、とヨハンは窓の外を眺める。窓ガラスは雨に濡れ、曇天の王都の街並みが広がっていた。報告によると、カイら調査団は灰銀竜の目撃者に案内され山に入ったようだ。そこで、実際に竜の巣穴を発見したらしいのだ。
らしい、というのは、肝心の発見者であるカイと連絡が取れず、詳細が不明だからだ。情報は山に調査に入らなかった王都議員からのものであり、証拠として送られてきた映像は精度に欠けていた。
気持ちのはやるヴォンカルト議員からは、竜保護のため人員追加の要請が再三届いていたが、王都は対応を決めかねていた。
また、事態をやや面倒にしているのが、この議員の扱いだった。ヴォンカルト議員は代々政治家を排出する一族の出身で、王族とも遠縁にあたり、議会で大きな影響力を持っている。また彼は華やかな外見に加え若いながらカリスマ性もあり、市井に人気がある。王都では近頃、先帝以前の魔力による王政時代を懐かしむ風潮が流行っており、ヴォンカルトら貴族出身の議員はその立役者となっていた。
「厄介なことになりましたね」
窓辺に立つヨハンに、初老で痩身の人物が声を掛けてきた。短い白髪を撫で付け、黒い官吏服を隙なく着こなす宰相のティモシー・ホーガンだった。先程から会議は一旦休憩に入り、参加者らは振る舞われた軽食をつまみながら、小声で歓談している。
「・・・まさか灰銀竜らしきものが、本当に見つかってしまうとは。君の研究員は優秀だ」
「宰相閣下、恐れ入ります」
ヨハンは、内心緊張しながら返答する。本来なら、研究所長とはいえ王都の一職員であるヨハンが、閣僚らと席を並べることなどあり得ない。今回は発見者が自分の研究所員であり、竜が議題の焦点のため、ヨハンもこの場に加えられていた。
「それで研究員とは、まだ連絡がつきませんか?」
「まだ本人とは話せていません。現地が王都への不信感を表して一束触発な状態らしく、彼と副団長で説得に当たっているとか」
「なるほど、竜は辺境では生き神みたいなものでしょうしね」
切れ者と名高い宰相は銀縁の眼鏡の奥から、鋭い視線をヨハンに投げかける。これは一瞬も気が抜けないぞ、とヨハンは冷や汗が背中を伝うのを感じる。実は王都から召集がかかる直前に、ヨハンはカイと一度通信していたのだ。
++++
「ハンコック所長、夜分にすみません」
夜更けにカイから通信が入ったのは、ヨハンが眠れずに諦めてベッドで本でも読もうかと思っていたところだった。ヨハンはカイを年の離れた弟のように可愛がっていたが、遠慮がちなカイの方から連絡がある事はめったになかった。不審に思いながら応答すると、やや緊張した声が飛び込んできた。
「ああ、カイか。まだ起きていたから大丈夫だよ。君は確か、まだ辺境で調査中じゃなかったのか?」
「・・・はい、実はそれに関して、折り入ってお願いがあって連絡しました」
カイの声は、微かに震えているようだった。
「・・・辺境で何かあったのか?」
「・・・調査に入った山で、竜の幼生体を見つけました。詳しく調べてみないと分かりませんが、明らかに家畜の竜種とは違います。まだ翼が未発達ですが、成長すると比翼も可能かと思われます」
「ーー噂の灰銀竜か。・・・幼生体ということは、親も近くにいそうか?」
「恐らく間違いありません。子竜に定期的に餌を与えている形跡があります。親竜は、全長15メートル程の大きさになるかと」
これは大変なことになるぞ、ヨハンの頭の中で警鐘が鳴った。もし竜の存在が公になると、太古の力を受け継ぐ灰銀竜かどうかは別として、王都は大騒ぎになるだろう。
「・・・それで、カイ。どうして私に連絡してきたんだい?」
わずかな躊躇いのあと、若い研究者のしっかりした声が響いた。
「ハンコック所長、俺に時間を下さい。今、幼生体を捕獲したり、移動させるのは得策ではありません。今後どうするにせよ、まずは竜の生態について、もっと詳しく知らないと」
「なる程、それは私の仕事だな。王都の連中に、無闇に親竜を刺激させたくもないしな」
「はい、辺境の村も竜の慎重な扱いを望んでいます。いきなり大量の人員を送り込んで、現地と摩擦を生みたくありません」
「私が時間を稼ぐとして、カイ、君はどうするんだ?」
「実は・・・俺は子竜に呼ばれた気がします。どうしてだか山で竜の声が聞こえて、導かれるように巣穴にたどり着いたんでする。もしかすると、親竜とも同じように接触できるかもしれない」
「相変わらず、君は竜に好かれているな・・・」
ヨハンは、カイの不思議な力のことをまざまざと思い出していた。あの繊細で優しげな青年は、まるで竜と心を通わす術を持つかのようにみえる。どんな荒ぶる竜でも、カイが近づき、竜の声に耳を傾け会話するように宥めると、次第に落ち着いていくのだ。
「カイ、今の時点で竜の力は未知数だ。成体に近づくのには慎重になるべきだ」
「はい、それは充分に理解しています。しかし、だからこそ、万が一王都が早急な判断をして、竜を捕らえるような事態が起こる前に、親竜と接触したいんです」
「しかし、カイ・・・」
「ハンコック所長、無茶はしないと約束します。数日でもいいので、時間を下さい」
「・・・分かった、カイ。調査は無理のない範囲で続けるように。連絡も逐一入れてくれ」
「はい、ありがとうございます」
安堵したように声を和らげて、カイからの通信が切れた。ヨハンはすっかり目が覚めてしまい、これから起こるだろう事態に向けて、自分が出来ることは何か考えを巡らせ始めた。
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