第1章 王都の夜 1

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第1章 王都の夜 1

 キュウ、キュウと人恋しさに鳴く声が薄闇に響く。 ーー今日はちょっと遅くなったから、早く顔出してやらないと…。  カイは、急かされたように回廊を歩いていた。  仕事漬けで、ろくに日に当たらない白い顔。長い前髪に隠れた灰色の眸。伸びすぎた黒い巻毛を肩に散らし、細い身体を白衣に包んでいる。  カイ・ソンバーグは王都研究所の所員だ。その優しげな顔つきのせいで学生に間違われることもあるが、配属されて7年目、家畜化ドメスティケートされた竜の繁殖促進の主力を担っている。  カイは回廊を突当たり、無機質な白い扉の前に立った。右手をかざすと、手首に巻いた細い銀の輪が淡く光り、扉が音もなく左右に開いた。  室内は、竜独特の匂いが鼻をつく。頭が痺れる、強い獣の匂いだ。カイは一瞬顔をしかめた。部屋の両側には、頑丈な飼育ケージが立ち並ぶ。前を通り過ぎると、大小の低い甘えた鳴き声があがった。  ーーお前達は、後でな。  宥めるように声を掛けながら、キュウ、キュウと甲高い声がする部屋の中央へ歩を進める。  訪問の目当ては、ガラス張りの保育器の中でカイを待っていた。仔犬ほどの丸々とした茶色の生き物が、むっくりと頭を上げる。金色の丸い眸がじっとこちらを見つめていた。3週間前に孵化したばかりの、鎧竜の幼生体だった。 「よう、待たせたな。今日もいい子にしてたか?」  カイは、鋭い爪にひっかかれないよう注意しながら、幼竜を抱え上げた。要観察の時期は抜けたが、一日の終わりに様子を見るのが日課となっている。  さっそく頭を擦り付けてくる幼竜を、ひっくり返して腹をくすぐる。幼竜は身を捩り、キュウと甘ったれた声で鳴いた。機器をかざして素早く体温を測り、全身を撫で回して、皮膚や関節に異常がないか検分する。 「よしよし、健康優良。餌もよく食べてるみたいだな。もう遅いから、おやつはちょっとだけな」  カイは幼生体用のペレットを数個、手のひらに載せてやる。幼竜は鼻先を寄せ、小さな嘴でペレットを噛み砕く。カイの手にこぼれた破片まで、嬉しそうにぺろぺろと舌で舐めとった。  草食で大人しい鎧竜は、成長すれば成人男性を優にこえる大きさになる。臭みのない脂ののった肉のため、主に食用として飼育されるが、硬い鱗や皮、骨、皮下脂肪にいたるまで、余すところなく活用できる。  鎧竜に限らず全ての竜種は、その利便性の高さから家畜化され、食用、労働力、または愛玩動物として全土で飼われている。竜が人を凌駕する力をもち、神の化身と敬われていたのは、昔の話だ。  先々帝が、悲願であった辺境統治を成したのが百五十年前。竜の生息地である山野は、辺境の民との長い争いで荒らされた。  徐々に力の弱った竜を捕らえ、人の手で飼い慣らしたのが百年ほど前になる。人のもとで繁殖を繰り返すごとに、残念ながら竜の知性は失われ、飛ぶ力もなくしてしまった。今では、体全てを活用できる便利な家畜として、一般的に飼育されている。  カイは幼竜をそっと保育器に戻すと、明かり避けにガラスの上から薄いブランケットを掛けてやった。まだ興奮さめやらない様子の幼竜は、フンフン鼻を鳴らして歩き回っている。 「今日はおしまい、チビは早く寝ろ。珍しく俺にも、これから予定があるんだ」  カイは室内の他の竜も見回り、体温や健康状態をそれぞれのファイルに書き付けると、部屋を後にした。 ++++  デスクに戻ると、白く光るモニターの後ろから、大きな身体が立ち上がった。 「ーーー所長自ら、わざわざ出迎えですか」 「久しぶりに、時間をとって貰ったんだ。浮かれて、柄にもないことをしてみたくなる」   歳を重ねた精悍な顔の男が、穏やかに微笑み返してくる。厚みのある身体を、落ち着いた色の官吏服に包み、栗色の髪をきれいに後ろへ撫で付けている。品の良さが漂う男ぶりだ。 「それに君の場合、引っ張ってでも連れ出さないと、仕事に終わりがないだろう」  カイは一瞬眸をまたたかせ、心に沸き上がりそうな感情を追いやった。 「忙しいのは、あなたの方でしょう。最近は研究所よりも、王都の議会への出入りが多い。その格好は、もう立派な官僚だ」 「研究所の運営には、意外とあちこちご機嫌伺いが必要なんだよ。議会から予算を貰っている以上、それなりの成果をアピールして回らなきゃならんしね」  カイは、曖昧に頷く。自分達の仕事が、竜の研究一辺倒ですまないことは承知していた。たまに請われて、カイも竜の諮問委員会で意見することがある。所長であるヨハン・ハンコックは、むしろ外部での仕事の方が多いかもしれない。 「さあ、味気ない話は終わりだ。せっかく付き合って貰うんだ。旨い飯と酒を楽しもう」  ヨハンに軽く手を添えられると、カイは背を押されるように出口へと歩きだした。
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